後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

虫よ虫よ

 今日は部屋のライトのシェードを掃除することになった。昨夜、なんか頭上でパタパタと音がするな、と思って見あげたら、虫がいた。虫がライトに突進して、シェードに体当たりして音を立てていた。「あー、外に追い払わないと」と思いながら、作業が一区切り付くまでとパソコンに向かっていたのだが、気がつくと灯りに闇雲に突っ込んでいく哀しい虫は、シェードの内側に入り込んで出られなくなっていた。

 これには困った。わたしにとっても虫にとっても、同時に喜ばしくない事態だった。

 そもそも、このシェードは何故こんな食虫植物みたいな構造をしているのだろうか。虫が入れる隙間はあるのに、一度入ると出られない。虫はシェードの内側でもがくように羽ばたきつづけ、ライトの熱に照射され死ぬ。そして見上げると、薄いシェードの膜越しに力なく横たわった黒点が映るのだ。

 放っておいても、嫌な気分にしかならない。

 そういえば、灯の交換をしたのはいつだったろうか。たしか年の暮れ、夕方に急に切れてしまって、慌てて買いに行った記憶がある。メモを見ると、どうやら三年前のようだ。ちょうど交換時期かもしれない。

 忘れもしないが、わたしはライトを交換し、シェードを再び取り付けようとして脚立からバランスを崩し倒れかけ、シェードを破損してしまうという失敗を犯している。あれはきつかった。シェードは確か、送料含めて7000円くらいした。以来、わたしはシェードの取り外しと装着は慎重に行うように気をつけている。

 シェードは直径60センチの円形だ。外すのはさほど手間ではないが、問題は取り付けるときだ。「ここを合わせる」という印が付いてはいるのだが、シェードを抱え、天井を見上げて構え、被せると印は完全に隠れて見えなくなる。装着時には目視できない位置にあるのだ。この理不尽にわたしはとても腹を立てた。「見えない目印をどうやって合わせろっつーんだよ!」と苦労したせいで、わたしは脚立からバランスを崩したのだ。

 シェードは「だいたいこの位置かな?」というところに適当にあてがって、勘を頼りに回転させるしかなかった。まあ結果から言うと、それで無事装着はできた。しかし、これは高齢者などには無理な作業ではないか? とわたしは考えた。家の中には、生活に必要なのにメンテナンスのしやすさというものを考慮していないものが多すぎる。そりゃ地元密着型の家電店が、高齢者向けサービスをやるわけだ。企業はもっと考えてものを作ってほしい。でないとわたしのような心の弱い人間が泣く。

 話が逸れた。そのあまり楽しくない作業を、虫一匹の亡骸を取り除くために行わなければいけないということに、わたしは少し落ち込んだ。だがやらないわけにはいかない。

 虫よ虫よ、憐れな虫よ。おまえは何のために生まれてきたのか。こんなシェードの中で閉じこめられて死ぬためではなかろうに。だがわたしだって、こんな人生を送るために生まれてきたわけではないのだから、恨むでない。

 そしてわたしは埃と虫の死骸を拭い、何事もなかったかのように白く静謐になったシェードを見上げるのだった。めでたしめでたし。

 

 

 ……えー、ところで昨日書いた電波時計ですが、気がついたらライトボタンも温度計も反応しなくなっていたので、本当に純然たる「ただの時計」になっていた。笑うしかない。もうこうなったら「これを定価で買ってしまった人の気持ちを考えよう」と、相対的に自分を慰めることにした。

電波の届かない電波時計

 デジタル電波時計を買った。安かったから。たまたま行った店で安くなっていてお手頃価格だったから。

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 前々から机に置けるデジタル電波時計が欲しいなーとは思っていたのだが手頃なものがみつけられず、もうこれでいいかとダイソーの時計を買って使っていたら、約十ヶ月で限界が見えたということを書いたのが以下。

mkhs.hatenablog.com

 やはり、ある程度の正確さを求める品を、安さだけで選ぶと後悔することになる。

 

 電波時計って電池を入れてリセットボタンを押すと、自動で電波拾ってくれるんだ。へー、と思いながら自室で説明書眺めつつ待ったけれど、受信マークは表示されているのに一向に時刻が合わない。説明書には最長で16分と書いてあるから、16分待っても変わらないということは受信に失敗しているわけだ。ちなみに表示は18分で消えたけど、まあ誤差なんだろう。

 仕方ないので、場所を変えて受信することにする。

 一応、我が家では他に貰いものの電波時計が二つあり、玄関と洗面所に置いてある。そこなら受信できるはずだと置いてしばらく待ってみたら、無事に時刻は表示されていた。よかったよかった。わたしはそう思って、自分の部屋に時計を持ち帰った。

 しかし、翌日になると自室の机の上に置いた時計は、受信マークを表示していなかった。まあここは位置が悪いらしいからなー、とまた洗面所に持っていって受信ボタンを押すが、反応しない。あれ……どうなってんの? わたしは不安になってきた。

 電波の届きにくいわたしの部屋で受信マークが表示されないのは、まあわかる。しかし、昨日は受信できた場所に移動して、手動で受信ボタンを押しても無反応ってどういうこと? まさか壊れた? ネガティブ者なので、すぐにそういう発想になる。

 時計としては普通に機能している。問題はない。しかし、電波時計は一日に何回か電波を受信して時間を修正するんでしょ? それができなかったら普通の時計と変わらなくない? リセットボタン押せば直る? そういうものじゃない?

 わたしは説明書を睨みながら悩んだ。もしかして、置き場所が悪かった?  説明書を見ると、けっこう制限が多い。とりあえず自宅内で使うにしても、以下の場所では「正確に受信できないことがある」と書かれている。

  • テレビ、冷蔵庫、エアコン、空気清浄機、パソコン、ファクシミリ等の家電製品やOA機器の近く。
  • その他電波ノイズを発生させるものの近く。
  • スチール机等の金属製の家具の上や近く。

 これなー。困った。自分が使いたい机の上っていうのが、まさにテレビの隣なのだった。更にその横にはデスクトップPCがある。本体は机の下だが、近くといえば近くだ。そのせいで調子悪くなったとか? まあ電波受信できなくても、電気切れるまでは普通に時計として機能する。でもわざわざ電波時計買ったのにその正確さが維持できないというのも虚しい。でも定価で買ったわけじゃないから、文句を言うのも心が狭い感じがする。でもなぁ……うーん、うーん……。

 わたしの悪い癖で、不測の事態が起こると落ち着かず、とりとめのない思考がグルグルしてくる。

「落ち着け、落ち着け自分。とりあえず損はしているか? してないだろう? 求めていた機能はちゃんと働いている。とりあえずそれで納得しないか? 一体何がそんなに不安なんだ」

「いや、不安っていうか。場所変えて「受信」ボタン押しても反応しないんだよ? 値引き品とはいえ買ったばかりなのに。さっそく壊れてたりしたら、すげー嫌じゃん。もう一回リセットボタン押して受信からやり直そうとしても、そこで反応しなかったらどうするの?」

「そんときゃアレだ。手動で時間を合わせる普通の時計としては使えるじゃん」

電波時計なのに? わざわざ電波時計として買ったのに? やだやだなんか損した気がするー!」

「落ち着け! そもそもまだ壊れたとは決まっていない!」

「でもやだ! 壊れたかどうか確かめる作業とか怖くてしたくない!」

 みたいな、しょーもない感じだ。

 若い頃はこんなんじゃなかった。もう少し前向きで、新しい機器を手に入れるとワクワクしながら色々弄って試していた。なのに最近は、入手したもののそれを使いこなそうとする意欲も湧かない。ただ安定した基本機能を求めるばかりだ。

 これも老化なのか、それとも今の自分のメンタルがよくないというだけなのか。どちらにしても悩んだところで解決はしないので、当分は「普通の時計」として机に置いておこうと思うのだった。

 

 

【追記】リセットしたらちゃんと動いた

mkhs.hatenablog.com

夢の話

 今日は久しぶりに早めに起きたので借りてきた本を読んでたのだが、昼過ぎにどうしても眠くなってきて、20分ほど寝た。コンタクトしてるから本当は寝ない方がいいんだけど、5分おきくらいに目を開ければ問題ないってことにならないかなとか思って。

 それにしては変な夢を色々見た気がするけれど、覚えていない。まあ、覚えていない方がいいんだろうってぐらい、不快な夢はよく見る。

 夢の中に出てくる見知らぬ人と、なんか知り合いみたいに話しているのは目が覚めると不思議になる。誰なんだ。べつに芸能人とか有名人とかでもない、本当に知らない他人。だからといって、知り合いや家族が出てきた夢も大概ろくなもんじゃない。

 現実を反映したストレスの夢ばかり見る。家が燃えたり沈んだり腐敗したり、なんか犯罪者に狙われたり。狭いコミュニティーの対人関係やコミュニケーションの齟齬に悩んだり、やろうとしたことが何をやっても失敗して焦ったり、移動しようとすると場所や道がどんどん変化して迷ったり。恥をかいたり死にそうになったり、歯が抜けたりガラス片を吐いたり。部屋が汚物塗れになったり、虫塗れになったり。他の人はどうなんだろう、そういう夢を頻繁に見るものなんだろうか。歯が抜ける夢とかは、ストレスのあらわれとしてよく聞くけど。

 子どものころは、悪夢を見ることがあまりに怖くて、眠る前に神様に祈っていた記憶がある。ということは、その頃から悪夢は見ていたのだなとは思うけど、同時に楽しい夢や美しい夢も見ていた気がする。もうここ二十年以上は、ストレスを反映したパターンの夢を見ると、夢の中で「ああ、またこれかぁ」と客観視するようになってしまった。

 それを明晰夢と呼ぶことはだいぶ後になってから知ったが、わりと普通のことだと思っていた。自分の脳内で起こっていることなので、自覚すれば自分の望むように変えられるという説もあるようだが、わたしはあまり上手くいったことはない。なんというか、夢の中で意識はできても、コントロールするのは難しい。感情を操作しにくいのと同じように。それまでの悪夢への嫌悪感や恐怖感が強すぎると、自分が意識することによって更に悪化する可能性もあるな、と考えてしまうのだ。考えてはいけないことを考えまいとすると、余計にそのことについて考えてしまうという現象だ。

 「これは夢だ、空を飛ぼう」と高所から飛び降りても、わたしには空を飛んだ経験などないので、落下する。落下の感覚なら遊園地のアトラクションなどで体感したことがあるからだろうか。夢の中の墜落感はなぜかリアルだ。仕方ないので、わたしは飛ぶのではなく、ジャンプで移動することを覚えた。滞空時間が妙に長く、着地点が危うくて、夢の中なのに気持ちの悪い感覚になる。あまりジャンプもしたくないのだが、そういうときはだいたい追われていて逃げなければ危ない状況になっている。夢だと分かっているのに、状況そのものが変えられない。

 なんか、夢の中でも自己コントロールが下手なのかなと考えると落ち込む。

秋はアップルパイ

 今日は涼しいなと思いながら図書館へ行くために玄関の扉を開けたら、むわっとした湿気が漂っていて蒸していた。おかげで帰宅して鏡を見たら、いつもより前髪がモワモワしていて恥ずかしいことになっていた。ちくしょう。

 バス代を浮かすために、自転車を漕ぐ。湿気のせいか、金木犀が強く香る。ああ、この季節はまだ活動しやすくてありがたいなぁ、と思う。だいたい心身の調子がよくて能動的になるのは、春と秋なのだ。やはり暑くもなく寒くない気候がいい。四季なんていらんから、春と秋のなかだけで生きていきたい。現実的に絶対不可能な願望だとわかりきっているので、ここは自己中心的に発露させていただく。五千兆円欲しいのと一緒だ。

 図書館の帰りに、またスタバに寄った。アップルパイをな、食べたかったんだ。安さで選ぶならドトール、飲料の味ならタリーズのハニーミルクラテが好きなのだが、ちょいと甘いものを食いたくなったらスタバなのだ。ケーキが美味い。星乃とコメダは、長居ができるという理由に金を払っているようなものなので、味にも値段にもどうこう言ってはいけない。(言ってるけど)自分の中でそのような住み分けがある。

 アップルパイ、美味かった。税込みで518円するけど。でもリンゴはぎっしりだし、パイ生地も美味いし、温めて出してくれるので満足感はある。焼いた粉にフレーバーの違うクリーム塗っただけだろって感じのカフェケーキに400円以上出すよりは、だいぶ精神的に良い。自分の中でそうした理屈を付けて、今日も散財とカロリー摂取を自分に許す。いや、許すもクソもない。ほぼ目的化しているようなものなのだから、根本的に抑止しようがないのである。わたしはそれを自覚し、認めるべきだ。仕方ないんだよ。秋にはアップルパイ食いたくなるんだから。

 

本日の片づけの記録

 季節の変わり目になると、大々的に部屋の片づけをしたくなるのはなぜなんでしょうね。心機一転な気分を味わいたいからなんでしょうかね。

 というわけで、久しぶりに片づけをしたのでその記録を残しておくことにした。

 

処分したもの 

 とりあえず、今日の片づけで処分を決断できたものをここに記しておく。自分の思考や判断基準を知っておくと、後々の片づけもマシになることを願って。

 

古い通帳

 処分しようと思ってたのに、なぜか一年以上放置していた。バラして手動のシュレッダーにかけたが、表紙は厚くて無理だった。安物のシュレッダーには限界があると学習しよう。(既に何回か同じ失敗をしている) 

古い薬や湿布

 気がついたら三年くらい前のものなので処分。 

うちわ

 昔、お寺でもらったやつ。今は奮発して若冲展で買ったうちわを愛用しているので、使ってなかった。 

ビニール製の書類入れ

 かなり古い。十五年くらいは前のものなんじゃないだろうか。当時はこういう鮮やかなカラーの文具が少なくて、飛びつくように買った記憶がある。ビニールが波打ってきてしまっている。使おうと思えば使えないわけではないが、見栄えもよくないし機能的にも新しいの買った方がいいので、処分。

 未使用の CR-R 二枚

 いつか使うかもしれないと思って、未開封のままだった。これも十年以上は昔のものなんじゃないかと気づいて、処分決定。これを買った店(CDショップ)ももう潰れていることを思い出し、なんだか悲しくなってきた。 

図書館カード

 新しくなったので現在ではもう使えない物だったのに、なぜかしまい込んであった。これはなんで取っておいたのか自分でも謎。一時、まだ使えると勘違いしていたのかもしれない。 

飲食店のポイントカード

 この前行ったら店が入れ替わっていた、という世知辛い理由により処分。 

飲食店のポイントカード、その二

 ふつうに期限が切れていた。 

薬についていた説明用紙

 お薬手帳あるから記録用としてもいらんよな、と処分。 

PC用ソフトの外箱

 こういうの、なんとなく捨てられなくて半年ぐらいはしまい込んでしまう。邪魔なのに。 

ぷちぷちシート

 梱包材のやつ。手のひらぐらいのサイズ。これも何かに使えると思ってしまったんだな。 

書店のポイントカードについての説明用紙×2

 カード作ってもらって、最初にもらうやつ。たいして重要な情報があるわけでもなかった。

ガーゼのハンカチ

 気がついたら薄汚れてきていた。少しぐらい質が悪くなっている方が気楽に使えてよい、などと思っていると、あまり人前に出せる状態ではなくなっていることに気づきにくいので気をつけたい。

 

処分を迷っている物

  • 古いゲーム(本体とソフト)……たぶんもうやらないし、不具合もあった気がするけれどそれを確認するのが憂鬱
  • 古いゲーム(PC用)……OS対応してるのとしてないのと混じってそうで、確認が憂鬱
  • CDの一部……収納ケースから取り出して選別するのが憂鬱

 ここら辺は、コンテンツとして思い出もあるし「勿体ない」という気持ちやノスタルジーがわきやすいので、手を付けるのには精神力が必要。こうやって書き出してみると、「あ、自分が憂鬱になるのは『選別作業に手間がかかり、精神的に不安定になるだろうという予測』に対してなんだ」とわかる。

 

  • 古いキーボード
  • へたったビーズクッション
  • 買ったはいいもののろくに使っていない膝置き台
  • テレビの録画用HDのパッケージ

 これらは、「もう必要ないと思うんだけど、でも使えるかもしれない。あと、処分が面倒くさい」という理由によってしまいっぱなしになっている物。「使えるかもしれない」と思ってしまうと、自分の判断に自信が持てずに悩み、ストレスになる。

 

 「迷っているもの」カテゴリーは気持ちに弾みがつけば判断できる気がする。しかし、本や服はまったく手を付けられる気がしないので保留。

 

わたしの片づけ失敗パターン

 最近ようやく自覚できてきたので、その流れをここに記しておく。

 

片づけのやる気十分

  ↓
勢いよく物を拡げていく
  ↓
目に入ってくる情報量が増える
  ↓
頭の中で様々な片づけの仮定や計画、願望が飛び交う
  ↓
何から処理をすればいいのかわからなくなり途方に暮れる
  ↓
休憩する
  ↓
情報が整理されず方針が定まらないので手が付けられない
  ↓
寝るまで放置
  ↓
邪魔なので、寝る直前に元の場所に戻す

 

 対策としては、途方に暮れだしたら脳みそのキャパオーバー気味ということなので、メモなどに思考を書き出して整理する。そして、手を付ける範囲を狭めてそこに集中する。「あ、これは手に負えない」と思ったらさっさと諦める。

 この「思考整理」もできるようになるまでそれなりに時間をかけているので、それまで片づけが捗らないことといったらなかった。何時間も散らかした物の前でウロウロしたりぼーっとしたり情緒不安定になったり、散々だった。

 

その他、注意する点

  • 個人的な思い出や思い入れのあるものは判断にストレスがかかる
  • 使えるか使えないか曖昧なものは判断にストレスがかかる(情報媒体はとくに顕著)
  • 完全に不要だと頭ではわかっていても、処分時にストレスで鬱っぽくなる
  • しかし、処分をしなくてもストレスでイライラしてくる

 片づけとは、これらの不安定な情動の変化があることを自覚して挑まなければならない難事なのだ。

 

眼科へ行ってきた part2

 二週間前、眼科に行って目薬を処方してもらったので、良くなってるかどうかまた診てもらいましたよ。

 自分の感覚としては、「良くなっている……気はするが、まだ治ったとは言い難い。良くなった気がするのも気のせいかもしれないと思うレベル」という感じ。全然良くなってるような説明ではないが、「うーん、でもマシになったと言えばなったような気がするし……」という微妙な案配。

 そう。病院での説明や意思疎通ってそこら辺が困る。

 で、気になっていた右目は治ってきているという見立てだったが、今度は逆に左目の方が荒れていると言われ、困惑するわたし。何それ。

 だいたい眼鏡やコンタクト作り直すたびに眼科で「あー、荒れちゃってますね」て言われる。子どものころからそうだったので、おそらく目に不調があることが常態化し、ちょっと痒かったりぼやけていたりしても「まあいつもこんなもんだしな」と思ってしまう。だから「目やにとか多いですか?」とか聞かれても「いや、多いとか少ないとかどれくらいの状態を指すのかよくわからんのですが」と思いつつも、曖昧に「はぁ……そうですねぇ、ちょっと増えたかなぁって感じはします」みたいに言うしかないのだ。

 ちなみに母に目やにのことを尋ねてみたら「不調がない限りほとんどない」と言っていたので、だとしたらわたしは常時不調です。どないせーっつーんじゃ。

 しかも医師は、わたしが普段はコンタクトレンズを着用しているということすら忘れていた。うん、まあ二週間前だしね。患者さんもたくさんいるし、お忙しいでしょうし、そんないちいち覚えてられないのもわかりますけどね。とりあえず薬処方して、良くなったかならなかったかだけ診て、また悪くなったら来てくださいって話になるんだよね。うん、わかってたけど。

 原因は何なんだよ。何を改善すればよくなるんだよ。そこのとこがさっぱりわからない。コンタクトレンズが合わないの? ソフトよりはハードの方が目にはいいらしいからと変えたのがよくないの? 関係ないの? いつも使っている市販の目薬は? 単なる体質? 埃とか花粉とかそういうのは関係ないの? レンズは気をつけて扱っているし、外せるときは外してるよ。それでもいっつも結膜炎になってるのって何が原因なの?

 残念ながら「あー、荒れてますね」と診断した医師たちがそれを説明してくれたことは一度もない。わたしもわたしで、自分の求める答えを引き出せるような適切な質問の仕方がわからない。そもそも、向こうだって忙しいのだから質問そのものを嫌がる可能性も高いと思うと怖くて言い出せない。そしてわたしは不調も普通のことだったので「あー、荒れてるんですか、よくわからないけど」とそれを受け入れるだけだった。

 ただコンタクトレンズをしているということで、コンタクトレンズは目に負担がかかるから、という説明だけはされる。うん、子どものころから聞いてるので知ってます。でも眼鏡ももうあまり見えないし、これ以上度を強くできないって言われてるから、コンタクトレンズ使うしかないんだよね。眼科に行くたび、目に負担かかってよくないよ、て言われるけど、ないと見えないから使うしかないんだよね。まあそういうこと説明する決まりがあるんだろうとは思うけど。

 使わない方がいいとわかっているけれど、使わざるを得ないから使うしかないものに「本当は使わない方がいいよ」て言われても、困る。こっちだって好きで目に異物を入れているわけではない。

 わかるぞ。わかる。目薬で一時的によくなっても、どうせまたすぐに結膜炎になるんだ。わたしはそうして死ぬまで結膜炎を繰り返すのにちがいない。人の体というのは精神も含め、そんなふうに騙し騙しやっていくしかないものなのだ、きっと。

『ドリーム(Hidden Figures)』の感想

 映画『ドリーム』を見てきました。

 原題は『Hidden Figures』。公開前に、あまりに内容と合ってない邦題だと話題になったことをきっかけに知り、「へー、面白そうだなー」と興味を持った勢です。(要するにコンセプトが響いたんだな)

 もともと、お仕事ものの痛快なエンタメが好きなんですよ。こう、普段見ることのできない専門家とか職人の内幕を、門外漢の観客が見ていてもほどよい情報量で臨場感を伝えてくれて、ユーモアがあり、湿っぽくなりすぎないけど心温まる人情ドラマがある。加えて社会的なテーマも真摯な感じに伝えてくれて、見終わった後に明るい気持ちになれるようなエンタメ映画。

 いいですよね。とくに心が弱っていると、泣ける系の感動作とかよりそういう作品が見たくなります。なんというか、さすがハリウッドはその手の王道ドラマに長けてますね。安心と信頼がある。(映画に詳しくないので、大雑把な認識なのは自覚ある)

 まあ冒頭から終わりまで、しっかり作られてますわ。テンポよく、飽きず、音楽も軽快だし、キャラクターもそれぞれのエピソードもはっきりしている。とても見やすい。「考えてみたら、まだコンピューターもない頃から宇宙に人飛ばす競争してたって凄いな」とIBMが導入されるエピソードで思わされたりするのも面白かったです。

 

 この映画を見た人が「60年代なんてそんなに大昔でもないのに、あの時代にもあんな差別があったのね」というような感想を洩らしてました。そうなんですよね。100年も前のことではないし、こういう映画を作れる当のアメリカにも禍根は残っているし、偏見や差別や格差がなくなった社会というのは、まだ存在していないわけです。そういう意味ではこういう素敵なフィクションを堪能した後ほど、いつも複雑な気分にはなります。まあ、だからこそこういう作品が求められて生み出されるし、国を超えて共感される物語になるのでしょうけれど。

 

 この作品に出てくる差別は、主に職場の格差や不平等としてあらわれているんですね。そもそも、NASAで働ける能力を持った人たちのお仕事ドラマですから、差別といっても露骨な暴力や暴言とかはありません。服装の規定だとか、管理職に昇進できないとか、職場近くのトイレを使えないとか、コーヒーポッドだとか、必要な情報を扱う会議に参加できないとか、能力に対して不当に低い評価だとか、日常のなかで具体的に描写されるので、親近感があって共感しやすくなっています。(それだけということもなく、他にも時代背景として色々見せていますが)

 そうした差別的な扱いを「普通のこと」「当たり前のこと」「決められていること」と思い込んでいるのも同じNASA勤めの人たちなので、たとえ知性の高い優秀な人たちであっても、自分たちの偏見や無関心に気づくのは難しいのだな、ということを伝えてきます。上手いですね。その理不尽に挑んでいく黒人女性たちも、自分たちの知性や度胸で戦っていくので、とても爽快感があります。

 つまり「悪意のない偏見に基づいた、不合理で非効率的な不平等」という形の差別がが是正され、スッキリするカタルシスを得られる物語なわけです。

 

 とはいえ、差別というテーマ性に対しては「じゃあ彼女たちほど天才でも有能でもないマイノリティーはどうすればいいの?」とか「ロケットの技術も結局は軍事力として利用されるものだし、お国のために役に立つから素晴らしい、みたいなところにはツッコミ入ってないんだよね」とか「『合理的』とされがちな差別については?」等の引っかかりも、人によってはあるだろうなと思いつつ。まあ物語の焦点をどこに置くかという問題なので、複雑なテーマの全部盛りをするのは難しいだろうし、結論としては見てよかった作品でしたよ。

 帰りに寄ったカフェで、隣の人が感想や解釈を熱く語っていたのも面白かった。