後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

遠くへ行けない

 昨日の件で勝手に一山越えたような気分になって、今日はドベーッとグラブルの進撃コラボになぞ精を出していた。そして昨日一日で減った体重は、即座に元に戻った。知ってたさ、こうなるってことは。

 一昨日スクワット百回して筋肉痛になっていた状態で遠出をして疲労したせいなのか、今日もまだ筋肉痛が残っていた。未だに筋肉痛になるのとならないのとの差がよくわからない。そして体重はべつに減らない。今日も腹筋したりしたけれど、何も期待せずただ続ける。だってわたしにはそのくらいのことしかできる能力がないのだから。

 今年もあと二十日ばかりになってきたので、色んなことを諦め気味である。毎年恒例の、「あー、どこか遠くに行きたいけど、とくに行きたいところもなければ金も体力もないから無理」という無気力な精神状態になっている。昔はよく連日三日コミケで一般参加とかできてたな。やっぱ若くて気力も体力もあったんだな、と懐かしむしかない。そして、また十年も経てば今の自分の方が若かった、体力があったと懐かしむことになるのではないかと考える。まあそれまで生きていられたならば。

 基本的に出不精なので、「せっかくの休みだというのに、お前はどこかへ出かけるとか旅行するとかいう気にならないのか」と親に言われたことがあるが、むしろ、人はそんなに出かけたり旅行なんて大変なことをしたがるものなのかよ、と思っていた。しかし、親戚知人はコンサートに行ったり、海外に旅行に行ったり、全国色々巡っていたりするので、したがる人もいるのだということは認めなくてはならないのだろう。

 だが昨日の件でもまた痛感したのだが、わたしに旅行を楽しめるわけがなかった。すぐに乗り物に酔って気持ち悪くなる、食べ物が合わないと腹を壊す、突発的な事態のストレスに弱くすぐにパニックになる、疲労が溜まると偏頭痛で動けなくなる、気を使わなくてはいけない他人が傍にいるとストレスで落ち込みやすくなる、寝付きが悪く目覚めが悪い、最近は耳栓をしないと自室でも眠れない、コンタクトがないと見えないくらい目が悪いが、コンタクトのせいで目の調子が悪くなることも多い、等々これだけの条件が揃っていたのだから、旅行を楽しむなど体質的に無理だ。

 新幹線に三十分乗っただけで「気持ち悪い……怖い……勘弁して……逃げたい……胃が苦しい……胸がむかつく……」となってしまったことは教訓として学習しておかなければならない。本当に自分が嫌になった。家族旅行も学校行事の遠出も、だいたい悲惨な思い出しかないじゃないか。

 いや、だからこそ克服したいという気がなくもない。悲惨なことになった原因を分析し、対処したり取り除いていけさえすれば、わたしにだって「楽しい旅行体験」は可能なんじゃないかと、まだ夢を見たい気持ちはわずかだが残っているのが自分でも不思議ではある。

本日の反省会

 わたしは帰ってきた。今日という日をなんとか乗り越え、帰ってきたぞ。……疲れた。しんどかった。でも終わった。終わったはずなのだ。うう……。

 というわけで、朝から新幹線乗って田舎へ行き、そして帰ってきましたよ。

 はあ……向こうへ行くの何年ぶりだっけ。数年前に行ってそんなに昔じゃないよなと思い込んでいたけれど、もしかして六年くらい経ってる? あれ? その後も一度くらい行かなかったっけ? やばい。記憶が曖昧すぎる。親戚の子がけっこう大きくなっていて焦る。

 なんでこんなに精神的に不安定になるほど行きたくなかったのかという要因が、行ったことによってはっきりしたので、今後のためにもここに書き記しておこう。

  その一、やっぱりわたしの体質と体力で遠出は、単純にきつい。

 酔うんだよ。行きの新幹線で三十分も経つと、胃がむかむかしてきてぐったりしてくる。内臓からやられる感じ。それをひたすら耐える。耐える。車内の電光掲示板ニュースなんか見て、なんとか気を逸らす。時間を潰すために新書本を持っていったのは失策だった。たぶん、これのせいで余計に酔った。あと、朝食としてサンドイッチとキャラメルラテを車内で食ったのもよくなかった。おにぎりと水にすべきだった。脂っこい物や、口の中に後味が残りやすいものはダメ。どうして何十年と同じことで苦しんできたはずなのに、喉元過ぎると忘れてしまうの? わたしは馬鹿なの? あと、冬だし、口内をスッキリさせるためにものど飴は買っとけ。水分はトイレに行きたくなるからあまり取りたくない。車内ではコートは脱いどけ。暑さで余計に気持ち悪くなる。活字本よりは読むなら漫画か雑誌がいい。コンタクトは曇ってきたら、もう目薬じゃ無駄だ。外して洗え。しかもなんか目薬さしたら痛くなってきてヤバい。

  その二、小さなお子様と同行するという精神的疲弊。

 いや、これは仕方ないんだ。わたしなんかより、親の方がよっっぽど常日頃から苦労しているだろうということがわかるので、わたしが愚痴を言うのも申し訳ないくらいだが、しかし慣れていないこともあって実際にきっつい。お子様にしたって、長時間の移動や待ち時間は退屈でしんどいに決まっている。自分も子供の頃はつらかった。だから幼いワガママを言い出したり、思い通りにならなくてふてくされたり、奇声を発するのも幼児はそういう生命体なのだから仕方ないのだし、ほんと親御様はお疲れ様ですと頭が下がるしかない。ごめんなー。精神的に余裕のない中年でごめんなー。

 はあ……疲れた。家に帰ってきて体重計に乗ったら、ここ最近増えるばかりだった体重が、一日で0.7キロも減ってる。乗り物酔いが怖くてあまり食べなかったからか。心身ともに疲弊したからか。

 まあいい、今日は終わった。終わったのだ……と思いきや、帰りに親から不穏な話を聞いた。田舎の人は口うるさいから、二十何回忌とかでもやらないと貼り出されて言われるよ、と。…………何ソレ。二十……何だって? え、聞かなかったことにしたい。

明日が怖くてパニックになるの巻

 突発的な事態のスピードについていけずに、真顔のままパニックになる系の人間です、どうも。

 心の中では「うぎゃー! うぎゃー! もう勘弁してくれー! つらい! 現実つらい!」と叫びまくっているのだが、中年にもなってそんな内心を表に出すわけにもいかないという自覚はあるので、見た目ちょっとテンション落ちてやる気なさそうな感じになっているだけだと思う。いや、それでも十分ダメなのだが、身内事なので勘弁してほしい。どうせこの事態を受け止めるどころか、総無視で済ます奴だっていることだし。

 結局、あれだけ心配していたコートは買わんでもいいことになった。何それ。過去の不安を返してくれ――と言っても仕方ないけど。

 現実は本当に心構えの先を行く。こっちが振り落とされようがお構いなしに無常である。とくに人の死なんてものは。受け止める心の準備なんてできていないうちに、ただ「やるべきこと」「やらなきゃいけない予定」だけがバンバンと圧をかけてくる。端から見たら大したことはない、たぶん、何もしないのと同じようなことだとしても、わたしはそれをこなせる自信もない。過ぎたら過ぎたで、ただ後悔と劣等感に襲われ、また内心でのたうち回るだけだ。

 ああ、明日の予定がつらい。想像するだけでしんどい。早く起きなくてはならないのに、たぶん「早く起きなくてはならない」というストレスでまた眠れなくなるだろう。そうなると、既に明日の日中もしんどいだろうという確信になる。どうする、どうなるんだ、明日のわたし。心が死なないか? 大丈夫か? 生きてるか? 生きていたって死んでるような人間が、死者を弔うなど畏れ多くないか? なにかとんでもない無様な失態を犯して迷惑をかけたり軽蔑されてしまわないだろうか。あああ……吐き気がする。息苦しい。体が重い。怠い。気持ち悪い。明日が、明日が不安だ。

 吐き出せ。とにかくこうして落ち着かない気持ちを吐き出してしまわないと、自分の中に溜まって腐ってしまう。息をしないと、息を。でなければ明日を乗り越えられない。

 こうして内心でワーワー一人で騒いでいるのに、しかし明日になればわたしはふつうの顔をしているのだ、たぶん。でも心は拗くれておかしいことになっている。何度かそういうことを繰り返して、これはもうどうしようもないなと自分でも諦めた。

 明日が無事に済みますように。もう神頼みでもしておくしかない。

明日のことは考えない

 昨日コートを買わねばならないことについて書いたが、場合によっては買わなくて済むかもしれないが、しかし確実にコートが必要な局面になった。読んでも意味がよくわからない文章だと思うが、わたしも事態がよくわかっていない。何にしろ、具体的に考えるのは明日以降だ。

 久しぶりに落書きなどをちょこちょこ描いていたが、案の定、また別のブラシブームがやってきて「描きやすいブラシ」概念が揺らぎつづけている。まあ筆圧が弱くても滑らかにかけて、太さや濃淡の強弱がつきやすいブラシが好みなのだが、描きやすさなんてだいたい気分で変わるものなのだ。

 他には……なんだ、今日は卵を食べ過ぎたかもしれない。ハムと卵のサンドイッチを食った上に卵入りスープを作ってしまったし、夜にもゆで卵を食べたから。いや、家に卵余ってたから。そういう日もあるよ、うん。

  気分が晴れなかったので、ポテチとアイスを買って食ってしまったせいだろうか、体重計に乗ったらまた微増していてムカついた。もはや悲しみよりも怒りが湧いてくる。なぜ現実にはこれほど高カロリーの嗜好品が溢れているのに、それを好きに食すことが怠惰や自制心のなさのように扱われ、腹に脂肪として蓄積されていくのだ。いくら運動なんてしたって、日々の筋肉痛に耐えたって、そんなん焼け石に水ではないか。しかも日常の憂さや悲しみや怒りから生じるストレスを癒やすために、食欲は増すのだ。悪循環である。負のサイクルが断ち切れない。

 ただでさえ、生きているだけで人の体は衰えていくというのに。いつか終わりが来るそのときまで、最善で賢い人間として生きなければならないのだとしたら、人生など苦行でしかないだろう。

 幼い頃は、生きていればいつかは色々なことに慣れて学習して、賢く楽になっていくのだろうと思っていたが、そんなことはなかった。人間は存外、簡単に壊れる。破綻する。積み上げてきたはずと思っていたものなど、あっさり無に帰す。虚しいもんだ。

 こんな精神状態になるのなら、もういっそ体重計になど乗らない方がよいのではないかと思う。実際、ダイエットしたい人は初期は体重は気にしない方がいいらしいというのを本で読んで、そりゃそうだよな、ストレスでモチベーション下がるだけだもんな、と思ったことを思い出す。いや、わたしはダイエットはしていないのだが、だからといって体重がこれ以上増えることもべつによしとはしていないのだ。

 とりあえず、今後の予定がしんどいことには変わりない。

コートを買わねばならない

 近々、親族の葬儀に出ることになるかもしれないのだが、家族に指摘されてようやく気づいた。喪服の上に着るような冬用のコートってある? と。

 ない。ないよそんなん。考えてみたら、法事やら何やらはだいたい初夏だったので、冬にそういう事態になったことがないのだ。こいつは盲点だった。というわけで、近いうちにコートを見繕いに行かねばならないということになった。憂鬱である。

 コートかあ……そんなもん十年以上まともに着た記憶がない。しかし、これから先も必要ないとは言い切れない。ああ、気づきたくなかった。この社会性の欠如。将来の憂鬱。コート一つでわたしの精神状態はどっぷりと暗くなる。

 ここまで落ち込むのは、わたしが個人的にコートというものについて個人的に良くない記憶を引きずっているからである。思い出すだけでつらい気持ちになるので、ここで文章にもしたくない。いや、客観的に見ればべつにどうでもいいことなんだろうけど、わたしの気持ちの整理がつけられない話なのだ。

 コートなぁ……コート。まあ、あればあったで着ることもあるだろうし、まったく無駄になるということはないだろう。親族の結婚式のために、そのとき一度しか着ない服をわざわざ買ったよりは。その頃、もう何もかもどうでもよくなっていて、ただその日を無事に過ぎれば何でもいいやと周囲の流れに任せて生きていただけだった。いやー、あれからまだ生きてるんだな、自分。そう考えると不思議なものだ。まさかそこから先が真の地獄だとは思わなかったもので。

 いかん。せっかくコートに対して肯定的に考えようとしてみたのに、逆にまた別の嫌な記憶の引き出しに手をかけてしまった。なぜわたしの思考回路はこうなのだ。疲れるよ自分でも。

 そうそう、どうせ買うなら寒い冬の普段も着られるような、素敵なものを探そうよ。……いや、ダメだ。そんなふうに期待値を上げると買い物はだいたい失敗するんだ。知ってるぞ。服を買う行為は、今現在の自分自身のフィジカルと徹底的に向き合うメンタルが必要になる。試着し、鏡を見る。これだけでもかなり精神力を必要とするのだ。そしていつも値札を見ては「うわぁぁ~」と落ち込み、自分自身の姿を見て追い打ちをかけられ、しかし必要だからもうここら辺で手を打とう、みたいに妥協して疲れ果てて家に帰る。そして部屋で広げてまた「うわぁぁ~」と、なるんだ。

 まあ一番きっついのは、買い物に同行することになる身内の不機嫌に付き合わされることだったのだが、ここ数年はそれからは解放されているだけは精神的負担は少ない。だから過去の記憶よりはしんどいことにはならないはずなのだ。たぶん。しかし、記憶によって痛めつけられたわたしの精神が、とにかく何かを不安がらせ憂鬱にさせる。

 そんな感じだけど、近いうちがんばってコートを見繕いに行こうと思います。まる。

文具売り場縮小ショック

 えー、今日はとある店に寄ったら売り場がかなりリニューアルされていて、目当ての文具売り場が縮小され児童向けになっており、事務用品や大人向け文具が壊滅していた。ショック。なにそれ。

 ない。ない。ノートもペンも、わたしが買おうと思っていたり補充しようと思っていたものがまったくない。はっはっは、こいつは参った。わかった。もうこの店には金を落とすような用はないだろう。残念だ。

 まあ、縮小されたり消えたりということは、売れなかったんだろう。売れないものを置いておく余裕はないんだろう。それはわかるんだけど、じゃあ児童向けのファンシー文具やスポーツ文具なんて増やしても売れるのだろうか、という疑問は残った。そういえば別の商業施設も、ファンシーグッズ売り場が数店被っていて、あまり繁盛しているようにも見えないのに不思議なのである。わたしには見えていないだけで、実はわりと繁盛しているのだろうか。謎だ。

 一昔前は豊かだったんだなぁ、と実感してしまうのはつらい。街からはCDショップもゲームショップも本屋も文具屋も映画館も消えた。百貨店も次々消えていく。残るものもあるし、新しいものもできるのだが、しかし、欲しいものがあればちょっと駅前に行けばだいたい目当ての物は買えたという利便性は既に過去のもので、今は通販か、数駅先に行かないと手に入らない物も増えてしまった。

 なんか悲しくなってきたので、今日のジャンプはコンビニではなく、残っている本屋に行って買った。(というか、最初はコンビニに寄ったのだが、立ち読み禁止シールが貼ってあって「え、紙に直接テープ貼られてるのはちょっと……破けそうで嫌だ」と思ったのと、レジに店員がいなくて買う気なくしたのだった)

 なんだってこう、たまに買い物に出かけると侘びしい気分になってしまうことが多いんだ。世の中が悪いのか、運が悪いのか、わたしの精神状態が悪いのか、そのすべてか。その虚しさを癒やすために、今日もスタバに寄ってしまった。ホワイトチャンク&レモン、美味しかった。ドリップコーヒーに好きなだけミルクもシロップも入れられるのもいいよね。席が空いていればゆったりできる。まあ、店舗にもよるだろうけど。

 こういうサイクルを繰り返しているから、カフェインと糖分の摂取が減らせないのである。

寝るのが下手くそ

 もう十二月になったというのに、掛け布団が秋仕様のままだったので寒さで寝付けないという現実を受け入れ、あれほど面倒くさがっていた、毛布をクローゼットの上段から下ろしてカバーをつけるという作業を、午前四時半に行う羽目になった。

 温かくはなったが、布団の重みと枕の高さが体に馴染んでいないからか何なのか、寝ている間に頭が痛くなり、目が覚めるたびに「うう、頭痛い」と姿勢を変えて寝直し、それでもやっぱり頭が痛い状態で起きることになった。

 まともに寝るって、難しい。

 寝るのに二時間も三時間も鬱々としながら泣いてたりしたあの頃に比べればマシだ、と自分に言い聞かせるが、それでもやっぱり自分の寝方は上手くないと思う。何が悪いのだろう。たぶん、脳みその使い方自体に問題があるんじゃないだろうか。

 まず床につくと、すぐに妄想というか空想を始めてしまうのがよくない。楽しいことならまだいいが、嫌なことを掘り下げてはそれに対してムカついたり悲しんだり、なんでこれから休もうっていうのに自分でストレスを溜めていたのか、今から考えるとまったく意味がわからないが、長年それが自分の入眠スタイルみたいになっていたから、自覚するまでは無意識だった。怖い。

 つまり、ストレスになるようなことを考えてしまう、というのは脳の癖なので、その癖は「やらない」ように自覚して治さなくてはいけないものだった。というわけで、それに気づいてからはなるべく無意味なものを想像している。意識の置き方はなんとなく、鼻が伸びるような感じをイメージすると寝やすい気がする。

 考えないようにする、意味あることを考えないようにする。

 でも考えちゃうよね、ふつう。

 人間とはなんという歪な生き物だろう。意識しないとまともに寝ることすらできないのか。いやもしかして、単純に枕が体に合ってないからなのかもしれないけど、買い換える予定は特にない。

 最近、睡眠の質が悪いとアルツハイマーになりやすいという情報を目にして、わたしは単純だからビビってる。シナプスがかなり衰えている、というかまともに使われてないような自覚はある。怖い。悲しい。もはや諦めすら湧いてくる。

 手作業や、知的な作業をすると脳にはいいらしい。知ってる。そんなん知ってる。でも、やる気が出ない。好奇心がない。希望もない。しかし、どんな人でも病気になるときなる、という人もいる。そう、予防は予防で、絶対ではない。それもこの世の真理だろう。努力や労力は無駄ではないが、必ず報われるということもない。自然界には、公平も不公平もありゃしないのだ。

 ん? なんかまた話が飛んだな。まあいいや。

 寝たら寝たで、また変な夢や嫌な夢や疲れる夢を見たりするし、人間のつくりというものはやはりこう、納得のいかないものを感じる。感じたってどうしようもないが。