後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

暖かいのでパン屋に行く

 今日の昼食は、暖かかったので、パン屋にパンを買いに行った。寒いとコンビニの方が近いのでそっちで済ませてしまうが、パン屋の方が安くて美味いものが選べる。

 地元ではけっこう人気のあるパン屋だと思う。昼食にしては少し遅かったので、売り切れているものもけっこうあったし、それでも客が途切れることなく入ってくる。一人で三千円以上買っている人もいた。

 その店のパンは、惣菜パンが美味い。カレーパンにもけっこう大きめな肉が入っているし、ハンバーガーも食べ応えがある。チキンもちゃんと、鶏肉の味がする。コンビニで買うような、パサパサしているか脂ぎっているかみたいなやつじゃない。

 わたしは、ハムカツサンドとおやつ用の菓子パンを買った。ハムカツサンドは、甘酸っぱいソースと玉子も美味しいし、菓子パンはちょっと硬めの生地で、中にナッツやチョコが入っている。このチョコの塊が、またずっしりとしていて食べ応えがある。

 食べてとても満足したが、それでも自転車でちょっと時間のかかる場所にあるので、たまにしか行かない。往復を考えると三〇分はかかるので、すぐに何かを食べたいときに行く気分にはならないのだ。

 ところでその店は、わたしが通っていた中学校に近い方向にある。梅の花びらが散っている道路を自転車で通り過ぎながら、正装をした女性同士が道ばたで何か話しているな、と思いつつ先を行くと、制服の胸に飾りをつけたまま歩いている中学生が目に入り、ああ今日が入学式だったのか、と納得した。

 暖かい入学式か、よいことだな。この前のブログにも書いたが、寒い入学式だった自分はそう思った。冷えきった体育館でじっとしているというのは、つらいものだ。

 彼ら彼女らは、一応自分の後輩ということになるのだろうが、なにしろ昔のことだから中学校も色々変わっているだろう。どれくらい変わっただろうか。さすがに今の時代、落書きだらけで煙草臭かったりはしないだろう。自分が卒業してから数年は、堂々と煙草を吸いながら道を歩いている中学生なんかも見かけたが、近年はまったく見ないし、変わったのだろうと思いたい。

 そんな中学生らがよく溜まっていた、学校近くのファミレスは、どうなっているだろうか。店自体は今でもあるが、二十年以上は入っていないのでわからない。しかし、ファミレスの形態そのものが変わっているっぽいから、中学生はあまりいないのではないかと思う。

 ゲームセンターやカラオケの店なんかも消えてしまったし、そう考えると地元には、若い人が集まりそうな場というのが思い当たらない。まあ、わたしが知らないだけで、あるのかもしれないけど。

 帰りに自転車で道を走りながら、桜はどうかなと蕾の具合でも見ようとしたけれど、あまりよくわからなかった。途中にあった学校の校庭には、けっこう鮮やかな赤い花の咲いた木が並んでいたけれど、何の木なのかはわからなかった。

わからないことは、わからない

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 たまにこういう意味のわからないことが起こると、つい不安になって原因を知りたくなるのは、ごく平凡な人間の心理だと思う。

 一応説明すると、本日の当ブログのアクセス数である。今日の十一時頃に限って、なんでこんなに跳ね上がっているのか、理解できないのだ。今まで日に最高35くらいだったのが、その倍である。

 ちなみにアクセス元サイトの比率は、Googleが71%、Yahoo! 検索が18%、はてなブログが7%となっている。少し前まではBing もあったけど、いつの間にか消えた。そしてGoogleからのアクセスの32%、Yahoo! 検索の18%がひとつのページ(読書感想)に集中している。

 総アクセス数が1760なので、その内の約4%が本日のアクセス数ということになるが、反応があったのがどのページなのか、数字を見てもまったくわからんという状態でスッキリしない。たしかに、よく見ると増えているようなページもあるけれど、なぜ今このタイミングに集中したのかが解せない。

 

 まあ正直、考えても無駄だろうとは思う。仮定を導くにしても、わたしの頭で読み解けるヒントが少なすぎる。しかし、こうも極端な数字が出てくると、一瞬動揺する。その意味を知りたくなってしまう。知ったところでどうということはないのだが、起こった現象に対して、「納得したい」という欲求が働く。

 しかし世の中は、だいたいのところ理不尽で不条理で、滅茶苦茶なものだ。因果関係なんて、そう簡単に個人で読み解けたら苦労しない。

 こういうときにいつも思い出すのが、昔深夜のラジオで聴いた話だ。

 たしか、それはある劇場関係者のインタビューで、その人が目撃したエピソードを話していた。かつて繁華街にあったその劇場の前で、どう見ても堅気には思えない人たちのちょっとした騒動があったのだという。何か事件でもあったのかと気になって、その後ニュースや新聞を見ても一向に報道もされず、はたしてあれは何だったのか。たぶん、それを知ることは一生ないのだろう――という、ちょっとした話に、わたしはなぜかとても惹きつけられた。

 ネットも携帯電話もない昔のことだ。人々は今のように、気軽に目の前で起こったことの情報を共有するツールを持たなかった。カメラすら、そう日常的に持ち歩いているものではなかった。

 印象に残ったのは、「目の前で何かが起こっていても、何が起こっているのか見ている人間に理解できるわけではないし、その後もわかる機会があるとも限らない」ということだ。

 憶測や想像で「ああだったんじゃないか、こうだっんじゃないか」と考えて語ることは簡単だけれど、それをせずに「本当は何が起こっていたのか、わたしには一生わからないのだ」と、受け入れるその潔さに、ゴチャゴチャと考えすぎるわたしは感銘を受けたのかもしれない。

 そう、わからないことの意味を考えすぎると、人は結局疑心暗鬼になってしまうことが多い。仮説はいつしか妄想になり、独断になってしまう。だから「わからないことは、わからない」と保留するのは、ときには必要なことなのだろう。

畳めども収納できず

 少し前にテレビを見ていたとき、片づけのコツのようなものをやっていたので、つい見てしまった。長年片づけに悩んでいる自分としては、少しでも有益な情報やアイデアが欲しい。

 「うーん、それはわかっているんだけどねぇ」と思ったのは、食器の片づけ方についての話だった。ついやってしまいがちだが、大きさや種類の異なる皿を重ねてしまうと、下になっている皿を使うとき、上に置いた皿をよけなくてはならないという一手間が発生してしまう。これでは効率が悪く使いにくいので、皿は一種類のみにして収納しろというのである。そして、なぜそれができないかというと、だいたい収納棚の棚板が足らないからなのであり、ならば買い足せるなら買い足し、なければホームセンターなどで自作するのもよい、と。

 「棚板の自作とか、もう片づけじゃなくてDIYの域じゃん、無理だよ……」と、わたしは悲しくなった。

 だいたい、食器に限らず収納のための棚というものは、棚板が圧倒的に足りない。収納の理想としては、「物に合わせて、使いやすいように収納する」べきなのだろうが、現実的には「スペースに合わせて、なんとか物を収納できるようにする」のが精一杯なのである。

 まだ部屋に本棚というものがあった頃も、スペースには余裕があるのに本のサイズに合わないので、本を直接積み重ね、取り出しやすいようにその間に厚紙を挟んでいたことがあった。安物だったせいか、夜中でもちょっとした振動でカタカタと音を立てて、わたしの睡眠を邪魔したものだ。

 収納用の棚を買わなくてはならないと何年も悩みつづけているのは、部屋に棚があったときでも、上手く収納できていたという成功体験が皆無だからである。棚を選別する指針がないのだ。

 たぶん、似たような悩みを持っている人は多いのだろう。本屋に行くと、よく収納を特集したムックなどを見る。いや、自分が気になっているからそれらを見てしまうのかもしれないけれど。だが、わたしはそれらの本を買ったことがない。ペラペラとめくってみるだけで、なんかゴチャゴチャとしてて、疲れるのである。

 収納や片づけに楽しみや、やり甲斐を見いだせる人なら、そうした雑多な情報も見ていて楽しいものなのかもしれない。だが、わたしにとっては、それは苦痛であまり向き合いたくない義務なのだ。できれば、自分に有用な情報だけ欲しいし、買って「役に立たなかった」と失敗もしたくない。

 だが、自分にとって有用とは、どのような情報なのだろうか。

 思い返してみると有用だったのは、洋服の畳み方と、レジ袋の畳み方だろうか。収納ではなく、収納するものをどのような形状に統一するかという方法の情報なのだが。ルールが決まると、迷うことがなくて作業が楽になる。

 しかし、そうして何年間も溜めこんだレジ袋をコツコツと畳みつづけ、コンパクトにしたのはよいが、そのレジ袋をサイズ別に、出し入れしやすく収納するという方法が確立していないため、部屋のあちこちに畳んだレジ袋が散らばっていたりする。

季節限定の味

 コンビニに行ったら、コカ・コーラピーチというのが売っていたので、つい買ってしまった。値段もちょっと安かったし。コーラとピーチ、どちらもわたしの好きな味である。飲んでみると、なるほど、ピーチ風味のコーラだ。それ以上でも以下でもない、正しい味がした。

 そのコンビニで見かけたのは今日が初めてだったのだが、調べてみると発売は一月二十二日だった。家族もその存在を知っていたところからすると、けっこうCMとかやってたのだろうか、記憶にない。

 なぜ桃なのかな、と思ったら、どうやらバレンタインやひな祭りのイメージに合わせてとのことらしい。どう受け止めたらいいのかわからないけれど、検索して出てきたニュースリリースによると、桃は日本では古代から邪気を祓う力あるとされているから、みたいなことが書いてある。なるほど、そういうこじつけな……いや、季節や行事に合わせたコンセプトが商品には必要なんだね。

 しかし、邪気祓いを想定してコーラを選ぶ面白い人は、そういないだろう。いないけれども、「なぜ桃なのか」と問われたときに、こういうストーリーをスラスラと述べられるポジティブな舌先三寸がビジネスには必要なのだろうな。よくわかんないけど。

 なるほど、ひな祭りをピークとして売られていた商品ならば、値引きされていたのもうなずける。わたしが「ちょっと安くなってたし、買っちゃった」と言うと、「売れ残ってたんじゃないの」などと返されたのだが、たしかにシーズンを外れてしまったからなのかもしれない。

 桃風味ドリンクなんて季節関係なく、一年中あってもよいのにと思うのだが、しかし実際次にコーラを買うときには、ふつうのコーラを選ぶだろうと思った。季節感を打ち出した変わり種商品みたいなものは、試しに一度は買うけれど次はない、ということが多いらしいし。

 新しい味を試すのは楽しいが、その期待感はあまり持続しない。実際に飲食すると「うーん、まあこんなものか」と現実に頭が冷める。それでも、コンビニやスーパーに並んでいる沢山の商品から選択するのに迷ったとき、限定ものというのは、やはり希求力がある。そんな心理を突かれている。

 ところで、今日はそのコーラと一緒に、スナック菓子も買ったのだ。「ビーノ梅かつお味」である。このビーノという菓子、家族には口触りがもそもそしているとあまり好評ではなかったのだが、わたしは好きなのだ。

 これも調べてみると、もともとは去年の一月に発売された季節限定の味だったらしい。それがコンビニ用に再発売されたというところだろうか。もともと梅味のポテトチップスも好きだし、安いし美味いし、とても気に入ったのでこれは定番商品になるといいのになぁ、と思った。しかし、自分が気に入ったものばかり定番化してくれるなどという都合の良いことは、あまり起きないものである。季節とともに、商品も容赦なく移り変わってくのだ。

あれから七年

 母がどこかへ出かけているなーと思ったが、いつものことなので別に気にしていなかったのだが、震災関連の映画を見に行っていたらしい。そういえば、今日は三月の十一日だった。そして母は福島の出身だ。

 そして母は、そこで売っていたらしい福島の米を買ってきて、栗御飯にして、夕食に家族で食べた。なぜ栗御飯なのかというと、前に買っておいた栗御飯の素が、使う機会がなくしまいっぱなしだったからだそうだ。しかし、味が淡泊すぎて物足りなかったので、塩昆布を足して食べたら美味しくなった。我が家はいつも胚芽米やら雑穀米やら玄米やらを食べることの方が多いので、白米は久しぶりである。べつに健康志向でそうしているわけではなく、味が好きなだけなのだが。

 震災のことは忘れていたわけではないし、むしろ忘れられないことの方が多いが、毎年「あれから何周年」ということを時事的に意識するほど自分のなかで重きを置いているわけでもない。それでも、あらゆる事象はいまだに現在進行形であり、何ひとつ終わったことなどないし、これからも続いていくのだろう。

 あの日わたしは何をしていたかというと、具合が悪くて寝ていた。横になっていたところにグラグラと大きく揺れ出して、通常とは違う精神状態だったのが逆によかったのか、「なんでこんなときに、こんな大きな地震がくるんだよ!」と、恐怖よりも理不尽に対しての怒りが勝った。

 家にとくに被害はなく、私用の鏡が割れてしまい買い換えたのだが、新しい鏡は使いにくくて、あまり使っていない。その鏡を見るたびに、「あー、地震で割れた鏡が懐かしい……あれと同じやつ、どこにあるんだろ」と思う。

 震災についてのあれこれは、しばらくして福島に行ったときに親戚からも色々と聞いたし、瓦礫の積まれた海岸も見てきたけれど、それを上手く文章であらわせる自信はないのでやめておく。

 個人的には、その後にあった私的な家庭のあれこれの方がずっと深刻だったし。そういう転機のようなものが、ちょうど色々重なっていて、忘れられない年になっているのだ。

 そんなわけで、わたしが「あー、あれからもう七年も経ってしまったのか……」と思うときには、震災に限らず、きわめて私的な諸々の事情が入り混じっている。思い返してみると、二〇一二年から一四年あたりが地獄で、一五年あたりから少しはマシになってきたけれど、未だに何一つ解決していないし改善もしていない、という感じだ。

 生きていると、ほんとうにどうしようもないことが起こるし、起こりつづけるし、今も起こっているのだなぁ、と無力さと共にしみじみ思い知った七年間だった。

店がなくなると寂しい

 春というのに憂鬱である。家から一番近くにあった大型書店が、今月に閉店してしまうからである。おまけに、ちょくちょく寄っていた本と文具が買える店も、火事でなくなってしまった。近隣にある他の店も、縮小傾向にある。

 利便性がどうこうというより、馴染みのお店がなくなっていくことに単純な寂しさが募る。不便というより、寂しい、悲しい、虚しい。そんな気分でぼんやりしてしまう季節の変わり目である。

 閉店は覚悟していたが、まさか火事でなくなる店があることまでは想定できない。ないと深刻に困るというほど頻繁に利用している店でもなかったが、記録用に使っているコクヨダブルリングノートが売っていた一番近い店は、そこだったのである。その店の近くにもよく行く店があり、ちょっと欲しいものを補充する言い訳として「ついでにあの店でも寄ろう」と思えるのがよかった。

 なのに、その店が呆気なく、なくなってしまった。

 閉店する店も、閉店が決まってから更に人で賑わっているらしい。まあ、もともと売り上げが悪かったとかいう理由ではないそうだが、色々と事情があるのだ。閉まる前に、行っておくべきなんだろうなぁと思うが、とくに用事がない。いや、用事がなくても行ってもいいはずなのだが、どうも家で考えていると、寂しさのあまりその店の賑やかな景色を見る気力がない。

 この世から消えてしまったものは、ただ記憶のなかに残るのみの存在となる。消えるとわかったときに、それならとできるだけの思い出や記憶というものを増やそうと努めるのか。それとも、悲しいし寂しいだけだから、思い出なんて余計に作らない方がいいと思うのか。わたしは悲観的な人間なので、偏っている考え方だと自覚していても、どうしても後者になりがちだ。

 だって実際に、店に行って立ったときに、やはりどっと寂寥感が湧いてきてしまったのだ。消えてしまう。こんなに人がいて、みんな惜しんでいるのに。「ここがなくなったら、もうここら辺には用事がないから来ないね」なんて会話も聞こえてくるのに。

 子どもの頃は、街とか国とかそういうものは、時間が経てば経つほど栄えるものだと思っていた。社会の仕組みはよくわからなくても、「衰退」という言葉は実感がなく、遠いものだった。

 さすがに大人になると色々見えてくる。一度衰退のスパイラルに入ってしまうと、そこから抜け出すのは至難だ。地域の人たちも「文化的、経済的にも大きな損失」と言われながら、どうにもできなく失ってしまう商業施設もあるのだし。何十年とかけて地域の経済を担ってきたにしては、あまりに呆気なく見える。

どんなものも、失うときはあっという間だな。などと、春先にあまり明るくないことを考えた。

こんな感じの今日

blog.hatenablog.com

 えーと、ここでこの前書いた「ゲン担ぎ」のお題が紹介されてて驚いた。「あ、『お題』ってちゃんと公式に読まれてるんだ」、と。

 そして、「とはいえ、アクセス解析見るとPVはそんなに増えもしないんだなー」ということがわかった。(一応増えてはいる)当ブログは、検索からきた、例の本の感想がダントツで多いのは変わらない。(およそ三分の一)まあ、そんな感じです。

 しかしこの紹介された記事、トップを見てもどこにあるのかいまいち分からなかった。中年なので、メニューがいっぱいあって分かれていると、どこに何があるのかを理解するまで時間がかかる。じゃあどういう形態が理想なのかと問われてもわからないので、サイトやブログ内の適切な誘導って難しいですね、という月並みな感想でこの話は終わらせたい。

 本日もわたしはグラブルをやり、今まで手を付けていなかった共闘クエストをぼちぼち進めたり、攻略情報を漁って今更「そうか、それなりに上げたつもりでいたけれど、スキルレベルがまだまだ低い」と気づいて、スキル餌集めに方針を切り替えたり、そこで拾った不要なSSR武器をスキル餌にするかエレメンツ用に砕くか迷ったり……まあ実に、その、有意義な……ソシャゲライフに……時間を、費やして……いた。

 認めるのはつらいが、認めなくてはいけない。キャンペーン中のわたしはゲームに意識を吸い取られつづけるダメ人間であると。

 どうも、わたしの脳みそがよくない。昔から、一度ゲームに熱中すると頭のなかがそればかりになってしまう傾向があるのは知っていたが、やはり衝動性と過集中の傾向があるのだろうか。自己診断なので断言はできないけど。まあ短期記憶にも自信ないしな、傾向としてはそうなんだろうな。

 そんなことも考えつつも、まあゲームはやってしまう。ゲームをやらなくても、本を読むには気力が要るし、部屋を片づけるにはまず棚を買わなくてはならない。棚を買うにはサイズを検討して、計って、それを部屋に置いて、何をどのように収納するかをシミュレートしなければならず、それはわたしの頭ではとてもとても難しく、だからもう七年ほども先延ばしにしている。「棚を買わなければ」と言いながら、「買いたい」わけではなく、それを考えると憂鬱になるし気力がなくなるのだが、それでもいつかは買わなければどうしようもなく部屋は片づかないのだ、と思い知らされるもの、それが棚。ゲームをやっていると、そんなしょうもない現実のことは考えずにすむ。

 はたして、その循環から抜け出せる日は来るのだろうか……自信がない。