後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

便所のバラ

 便所にバラの花が飾られている。一輪挿しのときもあるし、二輪のときもある。

 母が飾っているバラだ。赤いときもあるし、クリーム色のときもある。家にある鉢植えから、咲いたものを切って飾っているのだろうが、詳しくは知らない。

 バラは好きである。花は好きである。美しいから、目で見て楽しい。

 いや、楽しい、というのはいまいち的確な表現なのかわからない。好ましく、わたしの心にとって心地よいと感じる。癒される、という感覚に近いのだろうか。そうかもしれない。

 美しい花を見ると、好ましくないものが、ストレスとか不安とか苛立ちとか怒りとか、そういうものが頭を占めているという状態を、少しだけ緩和させる効果がある。

 美しい、好ましい、と感じられるものが、この世には確かにあるのだと、自分の目で確認できるということは、救いでもある。花は、わたしにとって、その一つだ。万能ではないが、効果はある、という類の。

 しかし生花は、すぐに萎れてしまう。仕方のないことだけれど。花は、切り取ってあろうが、土から生えていようが、いずれ萎れるし枯れるのである。

 緑色だった葉は、縁から赤茶けてきているし、張り艶のあった花弁は、皺がはいって縮んできている。純粋に美しい時は、あまりに短い。

 それでも、飾るなら造花よりは、生花の方がいい。造花には魅力を感じないし、癒されない。

  ここまで書いておいて、しかし、我が家の便所にバラは少し邪魔とも感じる。

 なにしろ、スペースが狭い。かろうじて花瓶を置ける幅はあるから、置いているわけだが、ちょっと強引な配置な気がしないでもない。何かの拍子に、腕をぶつけてしまわないかと気を使う。

 そういう、ある種の緊張感を伴って見ることになるバラは、美しくても、ちょっと落ち着かない。癒やし効果を、損なう。

 やはり、美しいものを見て楽しむにも、場所とか状況とか、そういうものは重要なのか。便所だからこそ、ちょっとした彩りをと心遣われて置かれたバラであるはずなのに。

 なんだか、また厄介な、矛盾を感じてきて勝手に戸惑うわたしだった。

こむら返りは痛い

 ブログ休止するとは書いたけど、なんか書き留めておきたいことがあったら、不定期に書こうかなという気になってきた。というか、一年続けてしまったので、習慣そのものが消え去ってしまうことに、恐怖を感じるようになってきた。

 運動でそれを後悔しているので、こっちは適当にやろうと思う。まあ、何もなかったら何も書かない方針でいくつもりです。

 

 数日前、というか具体的には七月三十一日、ベッドから起きようとしたら、右足のふくらはぎに猛烈な痛みが走った。こむら返りである。

 端的に言って、めちゃくちゃ痛かった。人生のこむら返り史上、最高に痛かったんじゃないかと思う。

 わたしは、起きて足を伸ばすとき、よく左足のふくらはぎがこむら返りを起こす。だから対処には慣れてはいたし、なったと感じた瞬間に、痛みを緩和させる姿勢になることにしていた。

 しかし今回は、それがあまり効かなかった。ちょっとはマシになったが、本当にちょっとで、相変わらず痛い。横になったまま苦痛に耐え、姿勢を何度か微調整しながらようやく落ち着いた。

 酷い目に遭った、と思った。そこで終わったと思っていたら、痛みは結局、翌日も、その次の日も後を引いた。ふくらはぎを伸ばすと痛く、右足を引きずるようにしないと、まともに歩けなかった。こむら返りを舐めてはいけない。

 原因は何だろうか。思い当たる節が多すぎて困る。運動不足だし、夏場だから水分不足だったのかもしれないし、ここ何年も健康診断に行ってないので病気なのかもしれないし。

 そこで思い出したのだが、そもそもわたしが運動をしようと決意した原因のひとつが、こむら返りが頻発することだった。

 とくに大きかったのが、二〇一一年のことである。家族が入院していたとき、わたしは病院から家に戻る途中、夕食を買おうと、駅前のコンビニに入って弁当を物色していた。そのとき、いきなり両足のふくらはぎが攣ったのだ。

 なかなか、衝撃的な体験だった。立ったまま、両足の激痛で身動きが取れない。そのまま痛みが引くまで何もできないのである。あのときはさすがに、自分の運動不足に危機感を覚えた。痛みは人間の楽観を吹き飛ばし、否応なしに現実を突きつける。

 まだ弁当コーナーの前でよかった。単に弁当買うのに迷っているだけの人に見える。それほど不審には思われない。まさか、両足が同時にこむら返りになって動けないでいるとは周りの人たちも想像できないだろう。

 運動を、再開しなければならない。そう思いながら、しかし暑くてあまり動きたくないから、水分補給とか、ストレッチとかマッサージくらいはしようかなと思ったのだった。

一年

 このブログを始めてから、とうとう一年経った。

 というわけで、ここで一旦休止しようかなと思ったわけである。きりがいいし。

 とりあえず、毎日千字程度の文章を書くという習慣をつけてみたい、という最初の目標は達成されたと思ってもいいはずだ。しかし、実際にやってみると、一年というのは長いのか短いのかわからない。

 世の中には、「最低でも十年」みたいな、厳しいことを言う人もいるわけだし。「石の上にも三年」という諺から考えると、まだ三分の一と考えることもできる。

 しかし、目的もなく方針もなく、気儘で自由と言えば聞こえはいいが、とくに何かを書き残したい熱があるわけでもなく、ひとを楽しませたり喜ばせたりするわけでもなく、世の中の役に立つ情報を発信するわけでもなく、ただ面白みのない個人がひたすら日常のしょうもないことや内省をひねり出してるだけのブログとしては、充分な気もした。

 最近ツイッターで、「ブログも内容や質にこだわらず、毎日更新すれば上達するし、評価ももらえるようになる」というような呟きがわりと拡散していたのを見て、つい、「ま、『そーいうのは嘘だよ』と確かめるためにブログを持続していたようなところがあるよなぁ」と、思ってしまった。

 文でも絵でも、上達するにはそれなりの理論に則った反復が必要だし、ある程度の評価を得るには人間の信頼関係を構築する必要がある。そのどちらも疎かにして、ただダラダラと続けただけで得られるものなど、あまりない。

 とはいえ、最初は書くのに苦労していたところも、半年を過ぎればだいたい慣れてきてスピードも上がり、書くということへの抵抗が減ったのは確かな成果だとは感じている。

 ちなみに、ここ一ヶ月のPVは614、一日平均約20、といった感じだ。個人的な感覚としては20もあるのかという感じだが、フォロワー数一桁のツイッターアカウントのインプレッションよりも、断然少なかったりする。

 とくに何の工夫もなく、今の自分にできるやり方で毎日ブログを継続するというのは、だいたいこんな感じかぁ、という結果は得られた気がするのだ。

 それに、これはわたしの性格の問題なのだが、やはり思うところがあっても、書けない物事の方が多すぎるのだ。最初はブログを始めてみれば、ネタのために何か活動的になったり、前向きになったりしないだろうかと思ったこともあったけど、まあ、そんなことはなかった。

 思い出してみれば、「やる気を出すために、まず道具を揃えよう」と買ったアレやコレを、散々無駄にしてきた人生である。ブログを始めたくらいで、その基本的な生活態度が変えられるはずもなかったのだ。

 もしかして、これを週一くらいのスパンにすれば、また違う景色が見られるのだろうか、ともちらりと考えた。毎日、という縛りを自分につくってしまったから、逆に視野の狭いブログになってしまったんじゃないか、とか。

 しかしまあ、一年は続いたのだ。続けられた、という思い出ができただけでもよしとしよう。

あまり意味のない我慢

 台風が来る。そのせいなのか、今日は涼しい。三十度を涼しいと感じる。

 ああ今日は過ごしやすいなぁ、と思うと同時に、なんだか力が抜けてフラフラしてきた。暑さに備えていた体の強張りでも消えたのだろうか。単に体調不良なのだろうか。

 猛暑をふっと抜けて、その合間に過ごしやすい日がやってくると、あまりの体の軽さや心地よさにびっくりする。それまでが、どれだけつらく体に負担があったのかを実感する。こんなの、個人の精神力とかでどうにかなる問題じゃない。

 頭や腹が痛くても、なぜか無断に我慢してしまう、ということがある。薬を飲むのを、躊躇してしまう。薬が効かなかったら怖いし、一日二回しか飲めないものを今飲んでも大丈夫だろうかとか心配してしまうし、薬を飲みすぎて効かなくなったらどうしようとか想像する。その結果先延ばしして、具合が悪くなってからようやく「これで薬を飲んでも許されるはずだ」みたいな精神状態で服薬する。すると、やはりふっと楽になって、「はっ、わたしは今まで何をしていたんだ?」と正気になるのだ。

 つらいときに、つらいことを我慢しなくてはいけないみたいな縛りを、人はいつから身につけるのだろうか。べつに、「ちょっと痛くなってきたら早めに薬飲んでおこう」と薬を飲んだところで、誰も責めはしないのに。

 さすがに大人になってからは、痛みの兆候がある時点で、悪化を防ぐためにも薬は飲むようになったものの、子どものころは、やはりどこかで「できるだけ我慢をしなくては」という思い込みがあった。

 自分でも不思議なのは、べつに薬を飲むことを誰かに咎められたような経験は、まったくないのだ。ただわたし自身が、漠然と、「痛みが酷くないのに薬を飲むのは良くないことなのでは?」と感じていたらしい。

 しかも、明確にそうした思想を持っていたわけでもなく、他人が薬を飲むかどうかはまったく気にもならないし、自分も飲んだら「こんなに楽になるなら、もっと早く飲んでおけばよかった」と毎回思っていた。

 にもかわらず、痛みを感じはじめると「うーん、これくらいならまだ我慢できる」と堪えてしまう体勢に入る。不思議だ。やはりどこかで、「我慢できることは我慢しただけえらい」みたいな刷り込みがあるのだろうか。この世は我慢大会じゃないというのに。

 今は無事にそんな思い込みは捨てているが、「そうした思い込みがあるのでは?」と、自覚を持つまでがけっこう長かったのだ。三つ子の魂百まで、というやつだろうか。とりあえず、百になる前には気づけてよかった。

 だが、たぶん、これからもちょくちょくその手の我慢はしてしまうんだろうなと思う。薬は飲めるようになっても、やはりどこかで、誰かに許されるか許されないかの線引きをされるという意識からは、完全に自由にはなれないような気がしているから。

とりあえず逃げとけ

 台風が来ているせいか何なのか、今までの息苦しいほどの暑さが緩和されて、うっかり油断しそうになったところへ、天候とはまったく関係のない憂鬱な予定が入り込んできた。

 それを「憂鬱だ」と感じてしまうのも、いかにも自分の人間の出来てなさ、駄目さ加減をあらわしているようで、更に落ち込む。「仕方ないけど正直、嫌だなー」と物事に対して思ってしまうとき、同時に発生する罪悪感が、ただでさえ低い自己肯定感をスパイラル気味に下降させる。ぐるぐるぐるぐる……精神の自己完結不毛ループ。

 「嫌だ、憂鬱だ」と感じる自分を、とても卑小で怯懦な人間に感じるし、それはたぶん事実なのだろうと確信してしまう。人間社会というものは、後ろ向きな人間、不安感の強い人間、自信がなくて自己肯定感の低い人間には生きづらい。

 落ち着いて考えれば、その用件に、わたし自身が負うところは殆どないはずなのだ。しかし、安心していられる環境が揺るがされるかもしれないという事態に、わたしの精神はとても弱い。その可能性を想像しただけで動揺してしまい、自律神経に支障が出る。

 大丈夫。何もない。べつにわたしがすべきことなんてない。ただその時間をやり過ごせばよいだけだ。

 しかし、自分にそう言い聞かせつづけるということは、一人でその不安に向き合い続けるということと同じなので、だいたい逆効果だったりする。不安は更に強まり、精神は不安定になる。自分の脳からは、逃れようがない。

 そういうときは、逃避するしかない。忘れることに全力を傾けるのだ。まあ、あまりにストレスがひどいとそれも不可能なのだが、明日の予定程度のことならなんとか誤魔化せる。

 昔は、その「不安を消すために逃避する」ということが、ひどく悪いことのように思い込んでいた。だから逃げると、いつまで経ってもそのことで自分自身を否定し責めて、そのためにまた精神が不安定になっていたりした。しかも、不安定になっているという自覚すらなかったりした。

 今はもう、自分に苦手なことは、あまり向き合うものではないと思っている。無理は良くない。疲弊して結果、自分を潰すだけだ。

 そんなわけで、明日もなんとか適当に、向き合いすぎずに目を背けてやり過ごしたいものだと思う。

いつかの機会

 あれ、今日はちょっと涼しいな、と温度計を見たら三十三度だった。べつに涼しくはない。ここ最近の暑さが異常すぎただけだった。

 ここ数日は深夜になってもなかなか室温が下がらなかったのに、今日はしっかり冷えて寒いくらいだ。よかった。あまりに効きが悪いので、エアコンが壊れかけているんじゃないかと心配していたのだ。

 おかげで昼食の冷凍パスタも、温めて冷房なしの部屋で食べることができた。一応、マイタケ入りのボロネーゼだったらしいが、肉成分はほとんど感じない上に、マイタケも少量しかない、炭水化物と脂っこいソースがメインといういつものアレだった。そのため、夕食時には力が入らず、食べた後もなんとなく物足りなくて、食パンを一枚追加して食べてしまったら、腹を下した。

 どうして同じ失敗を繰り返してしまうのか。

 冷凍パスタだけだと栄養が偏るから、野菜やタンパク質を加えた方がいいのはわかりきっているけれど、面倒くさい。脂っこい炭水化物は、多めに食べると夕方以降に腹を下しやすい。それでも、昼飯はなるべく手軽に済ませて、手間暇かけたくないという想いが勝る。

 丁寧な暮らしができないな、と思う。

 丁寧な暮らしとは、たぶん、自分自身を大切にする時間の使い方ができる暮らしだ。飯を作る時間とソシャゲで遊ぶ時間を天秤にかけて、ソシャゲで遊ぶ時間を優先させてしまうような大人になってしまった自分には、無理だ。

 ソシャゲをやらなくても、どうせネットをぼーっと見ることに、無駄に時間を費やしてしまう。とくに目的もないのに、目的を探さずにはいられないかのように、同じ所を巡回している。結局、可視範囲すら狭い。

 地元の飲食店チェックなどをして、「まあ、どうせ行かないだろうしなぁ」と思い、たまたま見かけた美味しそうなかき氷情報を見ても、「どうせ遠いから行けないしなぁ」と思う。食欲ではもう、気持ちが奮わない。なのにチェックだけはしてしまう。

 父がかつて、テレビのグルメ情報番組を見ながら激怒していた気持ちが、今では少しわかる。父は「どうせ自分には食べられない」ものを、他人が他人の金で美味そうに食っている姿を見せつけられて、何が面白いのかわからない、と主張していた。

 それを聞いたわたしは、「なんて卑屈な妬み嫉みを、恥ずかしげもなく口にするのか」と、ちょっと引いていた。父が共感されたがっているのはわかっていた。だからわたしは共感しなかった。グルメ情報は、テレビ番組として見ていて楽しい方だったし、わたしは父の共感装置として扱われることにはうんざりしていたからだ。こちらがいくら空気を読んで共感してやっても、向こうはこちらが共感してほしいことは平気で否定するし馬鹿にするだけだと知っていた。

 なので、気持ちは理解するけど共感はしたくないし、「いつか食べる機会もあるかもしれないじゃないか」くらいの楽観は持っておきたいものだと思う。

成型肉を食べる

 去年発売された、マクドナルドのローストビーフバーガーが、実は成型肉だったというニュースが目に入り、わたしはおもわず笑ってしまった。

 わたしもそのバーガーを食べていたからだ。そして「やっぱりそうだろうと思った」と、自分の感覚は正しかったことを確認したみたいな、満足感すらわいてきた。そんな自分をちょっと性格悪いなと思う。

 まあ、表記はちゃんとしてほしい。成型肉を使っているということは、べつに恥じることではない、とわたしは思う。だって、けっこう美味かったし。あの値段で提供されるローストビーフにしては、柔らかくて食べやすかったし。

 そう。ファストフードのメニューに入っているような、安いローストビーフはあまり美味しくない。筋張っていて、乾いてパサパサして、味がしないことが多い。だったら柔らかくて美味い成型肉でいい。

 それほど舌が肥えていないので、腹がへったときに食べられる安い肉料理は、それだけで美味しく感じるものだ。当たり外れがあっても、ついコンビニで昼食を買うときに、チキンを買い足してしまうように。 

 あれだって、それほど美味いと思って食べているわけではないが、値段や手軽さで満足している。だからリピートする。高級肉では、こうはいかない。ある程度の、覚悟が必要になる。金はかかるし、その分の期待感も膨らみすぎる。そして実際に美味かったとしても、悲しいかな、次の機会はなかなかないという現実に直面するだろう。

 昔、仕事で疲れた体で、コンビニで選んだやたら味の濃い「ステーキ肉風弁当」も、成型肉だった。くたびれた体で、コンビニ内にある飲食スペースで丸まるようにして食べたあの弁当は、とても美味かった。

「おもしろいなー、コレ。外見はステーキ肉っぽいのに、食べるとハンバーグの味がする」と、思いながら噛みしめた。

 わたしは記憶力は弱いのに、そういうことはなぜか覚えている。

 もちろん、ちゃんとした美味い肉だって食いたいとは思う。そういうのがお安く提供されれば、嬉しいだろう。でもローストビーフはな、ある程度高くないと美味かった例しがないからな。