後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

あーハイハイ、緊急事態……

 昨日買ったクッションは正解のはずだったのに、今日はまだ微妙に腰が痛かった。しかしこれはアレだ。ストレッチとか運動して体を動かしたので、その負荷がきたときの痛みだ、多分。と、私は判断した。

 人間の体は不自由だ。この前、ガッテン!を見ていたら、心筋梗塞の話をやっていたのだが、あきらかに異常な痛みに襲われても、人は正常性バイアスによって耐えてしまうというのだ。また、しばらくして症状が治まると、やはりたいしたことはなかったのだろうと判断してしまう。

 自分もたまに心臓が痛くなるが、三十分ほど耐えれば治るしな……と我慢している。

 だいたい、今の時世に「異常があったら我慢しないで救急へ」と言われても、私の住んでいる首都圏は既に医療崩壊しているというのが現実だ。命に関わるような発作が起こったとして、もう助かる保証はない。

 新型コロナに感染したとして、市内の患者の七十五%は自宅療養になっている。これは県の入院の基準が厳しくなっていたこともあるだろうし、もはや入院先がないということでもあるだろう。

 去年から自分なりにちょいちょい情報を漁っていたけれど、まあ本邦の対策は最初から狂気としか言いようがないお粗末なものだった。とくにSNSでの胡散臭い論者の横行には辟易した。このままいけば、冬には地獄になるな、という予想は早いうちからあったので驚きはしないけれど、それでも外れてほしかったという願いはあった。

 しかし、祈っても願ってもどうにもならん。この感染症は、国が政府が本気で封じ込めの体制を作らなければ、収束するなんてあり得ないからだ。しかも今のユルユルの『緊急事態宣言』では、あまり期待できるものはない。これから更に悪化していく可能性も高い。

 この手の愚痴はツイッターで散々吐いてたので、わざわざここにまで書くのはどうかなと思ったけれど、しかし今の私の現実の話なので、無視できるような話でもない。

 私はもともとネガティヴな性格だし、不安や恐怖も強い人間なので、本当に神経がやられているような状態の時は、なるべくしんどい話題は目に入れない方が良いということも理解できる。でも多少の余裕があるときは、この現実に起こっていることを無視するなんて逆に怖すぎる。

正解に辿り着いた……のか?

 昨日、腰の痛みを軽減させるために、ドーナツ型の低反発クッションを買ったはいいが、逆にその選択が正しかったか間違っているのか、分からなくなってしまったと書いた。

 本日、また新しいクッションを、買って、しまいました。

 そもそもなぜドーナツ型クッションを選んだのかというと、昨日も書いたのだが、体重を分散するので長時間座る人向きって書いてあったからである。でも実際に長時間座ってみると、腰以外のところも痛くなってきて、夜寝るときに尻の辺りにかなり疲労が溜まっている気配がして、あまりよく眠れなかった。

 何が原因かと考えると、やっぱりドーナツ型だからなんですよ。中心がちょっとヘコんでいて、外側が盛り上がってカーブを描いている。アレ、腿とか股関節とかに負担がかかるっぽいんですよ。

 実はドーナツ型クッションを買う前に、母のドーナツ型クッションを借りて、自分の椅子に乗せて試してみた。そこで、これはけっこう具合がいいのではないか? と判断してしまったのが間違いだった。母のドーナツ型クッションは、低反発クッションに比べても、なんかやけに硬かったのだ。硬いというのは安定感がある。その安定感が腰の痛みにはよさそうだなと感じたのだ。

 そんなバイアスがあったので、店でいくつかクッションを見たときに、既にドーナツ型クッションに対してかなり期待感があったのだろう。

 だいたい今まで何年も使っていたクッションは、普通の平坦な形だったのだ。この痛みから逃れるために環境を変えたいからといって、急にドーナツ型という座り慣れない形に縋ってしまったのが、判断ミスだった。

 私は違和感の残る尻や腰の感覚に不安になりつつ、寝る前にベッドの中で考えた。低反発の感触自体は、安定感があって悪くない。あの店には、同じシリーズで、普通の四角いやつがあった。そちらの方がベストだったのではないか……と。

 一度それが頭に浮かんでしまうと、もう試してみないと落ち着かない。そんな衝動に駆られて、私は起きると飯も食わずに昨日の店に直行し、四角いクッションを買ったのだった。

 いやぁ……楽っすわ。

 何これ。ここ二週間、背中や腰にクッション当てたり、タオル当てたり、ストレッチやりまくったりした努力は何だったの……というくらい、安定してしっくりくる。四角といっても、平坦に真四角なのではなくて、腰の側が高く、腿裏に当たる部分が低く傾斜がついている。これが楽。ドーナツ型とは大違い。(考えてみれば当たり前のことなのだが)

 座れる……座れるぞ。クッション一つで、今までと同じように!

 でもまた痛くなると怖いので、もう頻繁に足くんだり、貧乏揺すりしないように気をつけます。(腰が痛くなる前日、そんな感じで長時間作業していたらな、という自覚はあった)

 というわけで、ドーナツ型クッションはムダな出費っぽくなってしまったが、まあこれは別の使い道もあるだろう。クッション二つ買っても三千円しない。ガチャ十連分もかからなかったのだから安いものだ。多少お高い椅子でも買うべきかと悩んでいたけれど、これで七千円の椅子がまだ使えるなら救われる。

 ……とか書いておきながら、明日になってまた調子が悪くなっていたら嫌だなー。どうせ良いことなんてそんなに続かないんだ人生は。はぁ……。

クッションを買った

 困ったものだ。腰の調子がマシになったのか、そうでないのか、もうよく分からなくなってきた。先月の23日、私の誕生日に明確に痛みを感じ、24日もそれが続いていたので、せっかくの誕生日とクリスマスの料理もあまり楽しめなかった。

 まあ、そのはっきりとした痛みは、二日ほどで引いたんですよ。でも腰に燻り続けているような痛みの元が残っていて、これまでと同じように椅子には座れなくなってしまったのです。

 これが困る。ものすごい困るわけですよ。ほぼ一日中椅子に座りっぱみたいな生活している自分からしたら。

 なので、なんとか痛くならない座りを工夫するしかなくなった。

 なにしろ椅子は何十年使ってたのか覚えていない、七千円ほどの安物だし。腰にいいと聞いて購入した一万円以上もしたクッションも、とっくにヘタって、尻に当たってボコボコしている。しかも2020年はあまり外出もしていない。これで腰にいいはずがないんですよ。

 泣きたい。

 日々、衰えていく中年の体が、もしかしたら死ぬまでこうなのかもしれない、悪化して悲惨なことになるかもしれないという不調を次から次へと発動させてきて、気の休まるときがない。

 そんなわけでね、今日はちょっと歩いて行けるホームセンターで、買ったんですよ、新しいクッションを。これは不要不急の外出ではない。私の腰がかかっている。

 低反発のドーナツ型クッションというやつ。千五百円くらいの。他にも、最近流行っているっぽいハニカム構造のクッションの廉価版みたいなのが店にあったので、試しに座ったりもしてみたけれど、アレ、腰がグニグニ動いてあまり良くないんじゃない? と怖くなったので買わなかった。なんか、売っている店によって(メーカーによって?)やたら値段に差があるところも怖い。お高い奴は腰がそんなにグニらないのだろうか……。

 で、この新しいクッション。最初はよかったんですよ。快適~、腰楽~、と思った。でも椅子やらクッションやら選ぶのが難しいのは、長時間座っていないと分からないとこじゃないですか。まあ、なんつーか、座り方によっては今度は股関節が気になるなーとか、太ももがピキッとするなーとか、そのうちまた腰の痛みが燻りだすなーとか……無限連鎖で、もう何が良くて何が悪いのかが、分からんようになってきた。

 ドーナツ型を選んだのは、体重分散で長時間座る人向き、とか書いてあったからなんだけど。ドーナツ型じゃないふつうに四角いやつの方がよかったのかなぁ……と早速悩み出している。買って初日に。泣きたい。

 いや、古いクッションよりは確実にマシなクッションのはずなんだけど。

 ダイソーで買った五百円の腰当てクッションを当てたり、それにも疲れると丸めたタオルを背中に当てたり、タオルを二重にしたり減らしたり、適当なケースを足台にしてみたり、色々やりすぎて何が最善なのか混乱してきた。

 何事もトライ&エラーとは言うけれど、一度に色々なものを試すと、何がエラーなのかそうでないのか理解できないのだ。なにしろ、体調は時差で悪化する。私にできることは、なるべく痛みを感じない姿勢やらクッションやタオルのポジションやらを延々と切り替えていくことしかできない。無力だ。

 最終的には整体とか整形外科とか行くしかないのかな、と思うけど、もうすぐ緊急事態宣言なのでそんなん行く余裕もない。だからせめてと今日クッションを買いに行ったのだから。

 はあ……救いがねぇぇぇ。と、愚痴を吐き出して本日のブログを終了する。

再開の動機

 腰の調子がマシになったかと思ったら、また不調になってきた。

 救われない。

 とりあえずは対処療法で誤魔化すしかない。対処療法でなんとかなるだけいいじゃないかと自分に言い聞かせながら。

 今日という日を振り返ってみても、あまりネタにできそうなことがない。ジャンプ買いに行ったくらいか。しかし久しぶりに再開したこのブログで、漫画感想書くのも何か違うなと思う。だいたい、そんな精神的余裕がない。

 精神的余裕がないのに、なんでブログ再開したかって話はどうだろう。

 それはね、精神的余裕がないからこそ、なんですよ。

 何かを再開するとか、持続するとか、そういうことがまだ自分には可能なのだと思いたかったのだろうと思う。継続とか習慣とか、そういうものは、わりとメンタルによいとは学んだので。まあ、自分のためです。

 自己肯定感とか、自己効力感とか、そういうものだろうか。「これをする」と自分で決めて、実際に実行できる、という当たり前のことに縋りたいときがあるのだ。

 だから運動も再開した。再開して半年以上は経つのに、腹回りは前よりちょっと増えている。悲しい。しかし目的はダイエットではなく、心身の健康のためなので期待してはいけないのだ。

 ダメ人間が、みっともないほどささやかな変化に救いを求めているだけだ。けれどもそれをやめてしまったら、またどんな悲惨な坂道を転げ落ちるか分からないという恐怖感で、何かを続ける。それで幸福になれるわけではないけど、より最悪なことになりたくねーと逃げるために続けるのだ。

 でも運動って難しいね。へたにやる気を出してしまうと、逆に体を痛めることがある。体が慣れていないと、この加減が難しい。だったらジムとか行って教えてもらえばいいんだろうけど、金もかかるし今はあまり外出したくないから。

 慣れない動きをして、へんなところが痛くなると、また体を壊したんじゃないか、一生このままなんじゃないか、更に悪化してしまうんじゃないかと不安になって、寝起きが悪くなる。最近は、これがけっこうしんどい。毎日意識が覚醒するたびに、軽い鬱に入って目覚めることになる。それでも、前よりは寝付きはよくなっているので、少しは色々な試みの成果はあったのだろうかと思いたい。

 まあそんな感じ。

欺瞞に生きる

 腰の調子は少しはマシになってきたかなという感じはするけれど、油断は禁物なのである。普段よりも多めにストレッチしたり、散歩に行ったり、座ってばかりいないで体を動かしていかなくちゃな……と、意識していたら、今度は腿が痛くなった。現実ってそんなものだ。

 慣れていない体で運動を増やすと、今まで痛まなかったところが、あちこち痛くなる。ひとつの不調を緩和するための対策をすると、今度はそれが原因で別の不調が顕在化する。そんなんばっかだ。

 何も解決しない。現実はフィクションのようにスカッとはいかないので、延々と数珠つなぎのように訪れる不調を、なんとかその場その場で対処してやり過ごしていくしかないのだ。解決はしない。不調も問題も、本質的にはくすぶり続けて、消えることはない。

 そんなことに、最近ようやく気づけた気がする。いや、気づいてはいたけれど、私はすぐに絶望して「死ぬしかない」という気分になっていた。今でも死にたい気持ちは消えないし、定期的に浮上するが、そういうのを含めて私という人間の、生命体の体質なのだと思えるようになってきた。

 つまらない生命体だ。でもそんなものだろう。何もいいことがない。でもそれが普通なのだ。いや、あまり普通ではない事情もそこそこあるんだけど。まあでも今の時代は、それも普通のことなのかもしれない。

 欺瞞だと思っていた、「考えることをやめる」が必要なのだと分かってきた。弱くて愚かな人間には、現実逃避が必要だ。現実に向かい合って生きられるだけの能力がないから。人生を、現実を騙して生きるしかないのだ。自分で自分を騙すことでしか生きられない。それを「希望」と人は呼ぶのだ。

 欺瞞によって認知を歪ませ、なんとか生きていくしかない。そんな人生しか生きられないのは、自分で自分の人生を選択し切り開く能力がないからだ。でもしょうがないよな。そうしなきゃ生きていけないんだから。

散歩をする

 そんなに深刻ではないと思いたいけれど、腰の調子が悪いので、精神の調子も悪い。寝ていても意識が覚醒するたびに腰のことが気になって、起床するときの自律神経がよろしくない感じだ。

 ここ一年以上の努力によって、寝付きは多少は改善したのだが、起きるときに不安やストレスが一気に体に充満するので、嫌な感じだ。枕の高さも微調整が合わず、なんだか息が上手くできない感じもするし。

 ただ生きるだけのことがしんどい。まあ、べつに一日中ずっとしんどいわけでもないけれど。

 調子が悪いけれど、悪いからこそ気分転換に散歩をしたりもする。家の周辺を、微妙にルートを変えて一時間ほど歩くだけだが。屋外で、べつに人と会話するわけでも近寄るわけでもないので、マスクなしでぷらぷらと歩く。体を動かして、日光を浴びないとな、という義務感もある。

 義務感もあるけれど、散歩をすると少しだけ自己肯定感が上がる気がする。なんか心身にとって、マシな選択と行動をできた気がするのだ。金もかからないし。

 散歩をしていると、同じように散歩をしていたり、ウォーキングとかジョギングとかをしている人を見かけるのもいい。みんな、自分の健康のためにがんばってるんだな、と勝手に共感が働いて、孤独感がちょっとぴり薄れる。

 調子は悪いけど、調子をなんとかマシにしようという意識と行動が働くだけ、まだ最悪ではないと思える。散歩をしても、劇的に調子がよくなるわけではないけれど、今までできていなかったことを続けられているという実感が必要なのかもしれない。行動変容というやつだ。

 「行動変容」という言葉は、数年前に認知行動療法の話として知ったのだが、たしか、カウンセラーと相談しながら少しずつ自分の意識を変えて、行動を変化させていくことだった気がする。つまり、当人に必然的な意識が生じないかぎり、「行動変容」なんてそう簡単なものではないのだ。

 コロナ禍のなかで、この「行動変容」という言葉を頻繁に見るようになったわけだけど、まあ無茶言うなとしか思えなかった。変わろうと思って変えられるなら、精神科もメンタルクリニックも必要ない。ましてや、精神科やメンタルクリニックに行ってもどうにもならないようなことも多いのに。

2021年になった

 とうとう、2021年になってしまった。

 心身の状態は一進一退。ひとつの不調がマシになったかと思えば、またすぐ次の不調がやってくる。まあでも、慣れてきた。2019年の4月から生じた不調の対処への試行錯誤で、人生とはそういうもんだと受け入れるしかないのだという諦念が出来てきた。

 大きな変化としては、11月から長年嗜んできたカフェイン(毎日飲んでた砂糖とミルクたっぷりのカフェオレ)をやめた。とにかく自律神経によろしくないっぽいことはやめないと心身が保たないと思ったし、運動も再開したし、散歩も始めた。

 2月以降、外食もしてないし公共交通機関にも乗っていない。見たかった映画も諦めた。電車に乗って人混みの中には行きたくないから。本もろくに買えない。近くの本を売っている店は、そんなに充実していないし、最近は新刊もろくに入らなくなってきた。通販してまで宅配を圧迫するのはなんだか気が引けるし、そもそもカフェに行けないと本を読む気にもなれなかった。

 思い切って、一駅向こうに行けば大きな本屋はあるのだが、駅までバスに乗る気にもなれなかったし、天候や気温が良くないと自転車では行けないし、そもそも一駅先の都市はけっこう人がいるだろうなと思うと、やっぱり行く気力が失せた。だいたい私のネガティヴな判断力のせいだ。

 そうしているうちに、大晦日に地元の新規感染者数は最多を更新し、しかも今までの最多数の倍以上だった。そんなに栄えていない地とはいえ、そこそこ都心へのアクセスも容易な首都圏だから、逃げ場はない。

 12月の日本の感染状況はかなりヤバいことになりそうだし、医療崩壊も避けられないだろうという予想もあったので、早めに運転免許の更新に行ったりした。

 だいたい駅前のカフェなんて見たって、マスク外して仕切りもなく対面席でおしゃべりしているのが、ふつうの光景だったのだ。何度か利用したから知っているが、換気も悪い。30日にドラッグストアへ買い物に行ったら、私の前にレジ待ちで並んでいた老人はノーマスクだった。

 そうそう。長いこと使っていたショルダーバッグが経年劣化してきたので、新しいショルダーバッグを買ったのだった。しかし、デザインは気に入ったけれど小さすぎて、もうちょっと物の入るバッグも欲しくなってしまったので、自分の誕生日に安物をもう一つ買ってしまった。

 しかし腰が痛かったので、誕生日とクリスマスは精神の具合も悪く、食欲もなかった。いつもの美味しい地元のケーキ屋のケーキも、心なしか今年の作りは雑だったのも哀しかった。

 個人のささやかな、小さな注意や創意工夫や、気の持ちようなんて、国の無策の前には容易に吹っ飛び無意味なものと化すと痛感する。いにしえの時代から、民を殺すのは国家の仕事だし、これからもその脅威は続くのだろう。くそったれな時代だ。無事に生きていける気はしない。まあもともと詰んでるんだけど。