後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

小鉢を割った話

 皿を割ってしまった。

 夕食を終えて皿を下げようとして、手が滑った。割れたのは、ひじきの煮物をよそっていた小鉢だった。

 みそ汁用の椀と茶碗と小鉢と、一度に持っていこうと重ねていたのが良くなかったのだろうか。いや、それくらいのことは毎日やっているのだから、手が滑ったのもたまたまだろう。たまたま何かのバランスが崩れて、運悪く小鉢だけが割れた。

 物が壊れる瞬間というのは、いつだって呆気ないものだ。理由や原因を探したところで、事実も結果も変わらない。いつもと違う致命的なミスや不注意があったわけでもない。いつもと同じような夕食を過ごし、いつもと同じように皿を重ねて持っていこうとしただけなのだ。

「その小鉢、それが最後の一つだったんだよね」と家族に言われて、そうか、こいつは最後の一つだったか、と思った。同じ姿形をしていたこいつのお仲間は、すでに割れて壊れていた。そして、それがいつ、どのようにして割れたのか、わたしたちはおそらく誰も覚えていない。

 わたしの割ってしまったこの小鉢も、こうして記録でもしておかないかぎり、そのうち記憶から消えて思い出さなくなっていたはずだ。その代わり、一度こうして記録してしまえば、わたしのことを知らない誰かも、わたしがこの日小鉢を割ってしまったのだと知り、記憶に留めることもあるのかもしれない。

 ふだん使っているときには、まったく気にも留めていなかったのに、自分の手から零れて壊してしまったというだけで、残念な気持ちが湧いてくる。都合がいいな、とも思うし、しかし自分に責任があるのだからその結果はちゃんと受け止めないとな、とも思う。まあ受け止めると言っても、「皿を運ぶときは気をつけて運ぼう」くらいのことなんだけど。

 妙にしんみりとした書き方になったが、「物はいつか必ず壊れるのだから、それまで大事にしなければ」みたいな教訓めいたことを思ったわけではない。「ああ、生きていると失うもの壊れるもの摩耗するもの衰えるものばっかりだ。でもそれをなんとか継ぎ足したり補充したりして、これからもやっていかなきゃならないんだ。面倒だし疲れることだなぁ」と思い知らされて、ちょっと気分が沈んだのだ。

 小鉢を割ってしまった後、家族から、そろそろうちの車も劣化してきたので買い換えを検討しようか、みたいな話が出てきたことも影響しているのだろう。いや、小鉢なんかよりそっちの方が大事だった。