後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

客観視って、なんだろうな……

 この前『マシュマロ・テスト』の感想を書き、「あー疲れた寝るぞ」と布団に潜ってから、ふと考えた。

 もしかしたら自分は、「壁に止まったハエのように」を、ちゃんと理解していなかったかもしれない、と。 

 自分を他人のように見る、外側から眺めるというのは、小説で言うならば「一人称」ではなく「三人称」の他者視点になるということだ。もしかして自分が今までやっていたことは、客観視していると思い込んでいた一人称の視点でしかなかったのでは? などと考えはじめてしまった。

 考えると、頭が興奮してまた寝つけなくなっていた。

 自分自身を他人のように、「壁に止まったハエのように」眺めてみるという、その目的は理解できる。自分の見たこと、感じたこと、考えたことは絶対的な真実なのではなく、多様な現実の一側面でしかないことを理性で理解するためだ。

 しかし、わたしの脳はかなり悲観的だし鬱っぽい。そして、鬱的なひとの現実認識はネガティブに歪んでいるのではなく、客観的な事実そのものに近い、というあの13章の内容を考えると、矛盾しないだろうか? 自分に対して否定的な認識が、主観でも客観でも大差なかったときはどうすればよいのだろう。

 自分を他人の目で見るというのは、どういうことなのだろう。そもそも、そんなことは本当に可能なんだろうか? へたすると、「自分は自分を客観視している(はず)」という、認知の歪みを重症化させるだけなのでは?

 みたいな不毛なことをグルグルと考えていたら、先日この記事が目に入った。

www.newsweekjapan.jp

 あ、やっぱり「ハエの目」は「三人称」のことなのか。

 しかし、これは難しいことだ。常に自分のことで頭がいっぱいで、「わたしが、わたしは」と考えているような自分が、「わたし」を主語にすることなく、わたしのことを考える……。

 なんだか想像するだけで気持ち悪くなってくる。ハエになりきる、わたし。第三者のように自分に語りかける、わたし。どっちにしろ、わたしだ。どこまで行っても、わたしだ。

 この過剰な自意識から逃れるためには、自分以外のことを考えるしかない。だが、それもすべてわたしの主観というバイアスを通して、わたしの脳内で展開する思考でしかないわけで……。

 結局そこから逃れるために、ゲームをしたり映画を見たりするのだろうが、それすら最近は効き目がない。自分の思考からから切り離して、作品に没入するということが年々難しくなっているように感じる。加齢によって、感受性が衰えているのもあるのだろう。本を読んでいても集中できず、すぐに思考が脱線するのも同じだ。

 そうなるともう、疲れた頭は更に現実離れした妄想に逃避するしかなくなる。宝くじで五億円当てたいとか、億万長者になって旅行にでも行きたいとか、現実には絶対に不可能だとわかっているところに思考を費やすことでしか、安らげなくなる。

 そうして視野は狭まり、現実に生きる気力を失っていく。悪循環だ。

 いまのところ、そこから抜け出す方法がわからない。