文章を書くという憧れと苦行
数日前に目について、記憶を揺さぶられたのでそこらへんのつまらぬ話でも。
読書猿さんの記事は数年前に読んでた。書けないコンプレックスだから。
思い出したら、これに近いことは子どもの頃からやっていた。
で、実際に「ヤバイところに突き当たる」こともあったけど、何度もこのブログで申告している通りわたしはネガティブ人間なので、結果としては「ヤバイ」だけで精神的によろしくなかった。実行すると、ほぼ自己批判(あるいは社会や環境への不平不満)ループに陥る。怒りや不安や恨みといった感情が増幅され、認知の歪んだ主観が強化されていく。
健康でストレスに強い人なら、これをやるのは大丈夫なんだろう。だが、ある人には薬になるものでも、他の人にとっては毒になることもある。
以前にこのブログでも書いたが、「自己検閲」とか「仮想の読み手」がいないと、わたしは文章を書く、まとめる、推敲する、ということができない。思うがままに書き散らすと収拾がつかず、どんどん鬱になっていく。
それでも吐き出した後に冷静になって、そこからネタを拾えたり、修正して意味のある文章に出来るのならいい。でもそこでメチャクチャにどす黒いものを吐き出した文章は見るに堪えないというか、自分でも嫌気がさす。わたしのHDDにはそういう駄文が整理されないまま眠っているし、物理的に書き散らしたメモはさすがに黒歴史すぎて処分したものも多い。
実は今でもたまにやっているが、べつに特別なアイデアなんて湧かない。脳が空回ることに耐えられないから、アウトプットして冷ましているだけで、そこに書き出されたものは正真正銘の感情の吐瀉物だ。スッキリはするがそれだけで、べつに何にも変じない。価値を持たない。何度繰り返しても、いつも同じような愚痴に回帰する。
価値あるものを生み出せるような中身がない人間が、むりやり言葉をひり出そうとしてもこのざまだ。
つまり、わたし自身が長年の「ノンストップライティング」で身につけた文章力とは、こうしてネガティブな文章表現を鍛え上げることだった、というならば確かにその成果はあるのかもしれない。哀しい成果だが。否定的な理屈や愚痴をひりだす主観的な文章を書くことぐらいしか、わたしにはできない。
ちなみに、このブログの文章はすべて書きながら考え、修正している。プレビューをいちいち確認しながら整えているので、1000字書くのにも一時間以上かかる。それでも自分だけの支離滅裂な文章しか書けなかった頃に比べれば、少しは前進しているのだろうか……。