後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

掃除をしながら考えた

 子どもの頃は、掃除なんて嫌いだった。幼い頃の「掃除」というのは親に言われて渋々とか、小学校の当番とか、義務的なところから始まるのでしかたない。それが高校生くらいになると、わたしは片づけや掃除は嫌いではなくなっていた。といってもポジティブな意味ではなく、宿題だの勉強だの他にやらなければいけないことがあると、急に部屋を片づけたくなったりするあの悪習が身についてしまった、というだけのことだが。

 それでも部屋が片づくとすっきりするし、満足感はあるし自尊心が回復する。優先順位を間違えると後で泣くことになるが、掃除や片づけ自体は悪いことではない。

 本日もわたしは部屋に掃除機をかけ、デスクトップPCの本体を乗せているキャスター付きの台を移動させたり、うっすらと積もった埃を拭ったりとしていた。そしてふと、そういえばこの中もしばらく掃除してないなぁと気づいて、ついでにやっておくことにした。

 ここを以前に掃除したのは、もう一年以上は前なんじゃなかろうか。久しぶりだ。背面も埃が積もりやすいのでたまに掃除はしているが、PCの中というのは変なところを触って壊してしまったらどうしようと不安になることも多いので、なかなか手をつけられないのだ。だがたまに、本当に軽い気持ちで「あ、ついでだからやっておこうか」と何の不安も気負いもなく行動できるタイミングというのがやってくる。

 蓋を開けて中を覗くと、予想はしていたがとくにファンが汚れていた。わたしは専用の掃除の手順などは知らないので、手元にあるサッサや掃除機で埃を地道に拭ったり吸ったりした。ブラシなどを使って埃を叩いたりすると、逆に拡散してしまいそうなので慎重にやる。ファンは羽根の形が複雑な上にくるくる回るので、指を突っ込んで上手く固定しないと拭きにくい。拭き取ると塊になった黒い埃がおちていくので、それは掃除機で吸い取る。細かいところにたまった埃は、掃除用の歯間ブラシで絡め取っていく。

 そんな作業を黙々とつづけながら、普段使っているものの見えない場所に、こうして汚れが溜まっているのは知っていてもなかなか直視したくないものなんだよなぁ、と考えた。排水口の掃除もそうだ。風呂の排水口は基本的にわたしが風呂に入ったついでにしているのだが、とても臭いし汚しで、けして楽しいものではない。それでも、やらないとまた更に汚れが酷くなるだけだとわかりきっているので、手をつけると決めたらひたすら淡々と作業する。

 子どもの頃は、その理不尽さが受け入れられなかった。毎日毎日、どんなに拭いても掃いても吸っても、結局埃は部屋中に降り積もるし汚れていく。毎日毎日、絶対にだ。今日の今、目の前がきれいになったとしてもこれはほんの一時の状態で、明日になればまた埃が積もっている。酷い話だ、と子どもの私は思った。努力や労力がちっとも報われない。徒労だ。なぜ人類はもっと有用な掃除道具を作るか、あらゆるものに埃が溜まらないようにすることができないのか。それは未来では実現されるのか、しないのか。人はいつまでこうして住居の埃取り作業を強いられるのか……。

 だが、いつしかわたしはそんな怒りを忘れるようになっていた。人が生きていれば、毎日の掃除以上の徒労や虚しさや報われない労力など、無数にあるのだと理解したからだろう。それに比べたら、掃除は今日一日でも結果が見えて目の前がスッキリするだけ救われる。

 今日一日、あるいは数日の清潔。それを保てなくなってしまったとき、人の生活はどんどん荒む。それも理解したからだろう。毎日風呂に入ったり、顔を洗ったり、歯を磨いたり飯を食ったり。服を着たり脱いだり。使ったティッシュはゴミ箱に入れたり。使い終わったものは、洗ったり畳んだりしまったり。そんなことでも倦まずに毎日持続できるのなら、きっとまだ幸福な方なのだ。