後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

本屋に行って疲れた

 今日は電車に乗って、ちょっと大きめの本屋に行ったのだった。

 本を買うだけならネット通販で事足りるが、それはあらかじめ欲しい本が決まってる場合で、実際に内容を見て確認したい場合には、大きめの本屋に行くしかない。ご近所の本屋は全滅しているし。

 そう、全滅している。少し離れた駅前にあるのは、本屋ではなく本も売っているレンタル屋だし、最近になって本の売り場は縮小されたばかりだ。専門的な種類の揃った本をじかに確かめたい場合は、どうしても電車を使って大きな本屋に行くしかない。

 しかし、その本屋も来年あたり危ないらしく、頭を抱える。その店がなくなってしまうと、更に離れたところへ行かねばならず、時間と体力と気力と交通費をゴリゴリ削られることになる。それを考えると、悲しくなって落ち込んだ。

 それでも、行こうと思えば行ける距離にあるだけでも恵まれている方だ、という格差もあることは知っているので、あまり嘆いてばかりいるのも良くないかなとは思う。でも実際に個人的な環境の変化として困るのはたしかなので、ちょっとくらいは嘆かせてほしいとも思う。

 しかし、疲れた。買い物はなんでも疲れる。わたしの苦手な、複雑な条件のついた判断と決断が必要になるから、脳に負荷がかかる。おまけに疲れると頭痛がしてくる体質なので、本を吟味しているといつものように頭が痛くなってきた。このために余計にストレスがかかり、意思の力が鈍るということの繰り返しなのだ。

 我ながら能動的になるにはまったく向いていない損な体質だなと思うけれど、どうやら自分はけっこう損な体質をしているっぽいな、と気がついたのは、わりと歳をとってからだった。

 他の人たちは、ちょっと動くだけで疲れて頭が痛くなって、我慢していると最悪外出先でゲーゲー吐くようなことにならないし、寝付くのに布団の中で何時間もごろごろしなくても寝られるし、ちょっと脂っこいものを食べたりストレスがあると下痢になるのが普通だったりはしないのか、と気づいたときの、目から鱗感。

 わたしは集団で行動するのが大嫌いなのだが、これは子どもの頃からこの体質のせいで、すぐに具合が悪くなって足並みを揃えられなくなり、わたしが悪いかのように扱われることが多かったせいだった、と気がついたときの、妙な納得感。

  そんな単純なことにすら、慣れすぎていると意外に気づかないものなのだぁ、と気づいたとき、つまりわたしだけではなく、人はそれぞれそうして小さな複数の不具合を抱えており、そのことに気づかないまま、わかりあえないまま、なんとなく集団行動をとらされているだけなのだ、と腑に落ちたのだ。

 腑に落ちたのはいいが、それが何か現実を改善してくれるわけでもないので、わたしは疲れながら買い物をするしかないし、外出するには頭痛薬は手放せない。やはり大きな本屋はなるべく近くにあってくれないと困るなぁ、と思うばかりである。