後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

感想になってない読書感想

 今日も小説を読む。なかなか読み応えがあるので、三日くらいは読んでる。あともう少しで読み終わる。……はず。

 しかし、こう、なんていうか、感想が難しい。

 面白いのは確かで、読んでいて色々と脳みそが刺激されるのだが、理解はできない類の小説なのだ。でも面白い。しかし、こういうのを面白いと軽く受け止めてしまうのは、わたしがこの作品をまともに理解していないかもしれないとも思う。なんというか、毒というか刺激をアトラクション的に楽しんでいるだけで。

 難しい。

 わたしはだいたい、本を感覚的に読む。自分に理解できないところは何の迷いもなくすっ飛ばすし、知らないことがあっても気にせず読み進める。途中で調べるとかしない。さすがに浅すぎるかな、と思って、ある小説を冒頭から、わからない単語を辞書で調べていくという作業をやってみたら……あまりに多すぎてちっとも先に進めないので、嫌になった。

 この経験を経て、わたしは「あ、本って、意味がわからなくても読めるんだ……すげーな」と実感したのだ。そう。わからなくても、日本語として読めてしまえば、なんとなくわかった気になってしまえる。これは読解力の記事でも書いた。

 実は何もわかってないのに、母国語として読めるから、読み終わることはできて、読み終わると何かわかったような気になれてしまう行為。それがわたしの読書だったのではないか、と気づいてしまったときはそりゃちょっとショックだったし、ショックを受けなきゃダメだろくらいには思った。

(わかってなくてもわかった風に読めてしまう、というのは、もちろん著者の力量なのだとは、わかっている)

 だがそれでも、わたしは、悲しいくらいに頭が悪いのだ。たぶん。

 本を読みながら、わからなかったこと、知らなかったことをいちいち調べて、「へーそうだったんだー」とか楽しめるような知識欲がない。めんどくさいし、ふつうに苦痛だ。そんなことしてたら、きりがなさすぎて本なんて読めない。

 だからもう、断片でいいや、感覚でいいや、わからなくてていいやと割り切って読むしかない。それでも楽しく読めりゃあ、まあ、いいんじゃないでしょうかねぇ。くらいに思わないと、生きていけない。やってられない。

 そして今読んでるこの小説も、べつに読者にわかってもらうことを目的にしているわけでもないだろうと感じる。難解だけれど、それを理解しろとこっちに押しつけてくる感じがしないので、面白く読めるのだ。作者がある程度、こっち(読者)のことなんか知ったこっちゃない、というスタンスだとホッとする。

 たぶん読み終わっても、わからないものを抱えたまま「面白かったなー」と言うしかないんだろうけど。