後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

ポタージュの上の山盛りパセリ

 昔から、どうしてポタージュスープにパセリを入れるのか謎だった。

 子どもの頃からおなじみの定番ポタージュといえば、コーンかポテトのポタージュスープである。彩りのためなのか、薬味のような風味付けのためなのか。その両方を兼ねるためか。どちらにしても、それはワンアクセントの扱いであり、スープの味に決定的な影響を与えるために入れられているものではないはず、というのが、わたしのパセリに対する捉え方だった。アクセントなのだから、むしろ控えめに、申し訳程度に乗っている方が上品で正しいパセリの存在感だと思っていた。

 だがわたしの家族たちは、最近けっこうな量を盛るのである。ポタージュの上に。昔はそこまで盛っていなかったはずなのに。

 

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(誇張ではなく、見た目としては本当にこれくらい盛る)

 

 わたしはパセリ嫌いではない。セロリの葉などはむしろ好物だし、香草の類が苦手ということもない。まあ、紫蘇は使い方によっては少し苦手だけれど。

 この歳になると、パセリにも味の違いというものがあって、青臭くて固いだけのあまり美味しくないパセリもあれば、柔らかく風味のよいパセリもあるとわかってきた。パセリに罪はない。

 たとえば、具だくさんスープのような料理には、パセリは多めの方が美味しいと感じる。それは具材が形の残ったままなので、香草であるパセリがあると様々な味や風味の変化が楽しめるからだ。

 しかしポタージュは、あの渾然一体としたとろみの中に味が統一されているのである。そこに大量のパセリが入るとどうなるかというと、アクセントというにはあまりにも生のパセリは鮮烈で、その風味を主張しすぎるとわたしは感じる。

 だからパセリは嫌いではないが、ささやかに乗せる程度がポタージュという料理の調和を保つためにもベストなのではないかと思っていたのだが、家族らはパセリをあればあるだけ入れる方がよいとすら考えている節がある。

 そりゃ鍋の薬味ネギとかは多めの方がいい気がするけど、あれも具材の形が残っている料理だからであって、ポタージュというスープそのもののバランスがぶち壊しになるとは思わないのか。思わないんだろうな、うん。

 まあそこは個人の好みの問題ではあるし、自分の飲むポタージュに大量のパセリを入れることを強要されているわけでもないからいいのだが、問題はたまにわたしがパセリを入れる役割を負ったときに、いつも「それだけ?」「少ない」と言われることなのである。あの人たちから見れば、きっとわたしの方が『妙なこだわりでパセリの投入をケチっている』存在なのだろう。

 正直、だったらもう自分で入れてほしい。わたしはあなたたちの望むパセリの加減がわからない。そんなに沢山入れたら味がぶち壊しになってしまうかもしれない、と勝手な心配をしながら他人の飲むスープにパセリを盛る作業、自分で飲むわけでもないのに実はけっこうストレスである。