後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

店がなくなると寂しい

 春というのに憂鬱である。家から一番近くにあった大型書店が、今月に閉店してしまうからである。おまけに、ちょくちょく寄っていた本と文具が買える店も、火事でなくなってしまった。近隣にある他の店も、縮小傾向にある。

 利便性がどうこうというより、馴染みのお店がなくなっていくことに単純な寂しさが募る。不便というより、寂しい、悲しい、虚しい。そんな気分でぼんやりしてしまう季節の変わり目である。

 閉店は覚悟していたが、まさか火事でなくなる店があることまでは想定できない。ないと深刻に困るというほど頻繁に利用している店でもなかったが、記録用に使っているコクヨダブルリングノートが売っていた一番近い店は、そこだったのである。その店の近くにもよく行く店があり、ちょっと欲しいものを補充する言い訳として「ついでにあの店でも寄ろう」と思えるのがよかった。

 なのに、その店が呆気なく、なくなってしまった。

 閉店する店も、閉店が決まってから更に人で賑わっているらしい。まあ、もともと売り上げが悪かったとかいう理由ではないそうだが、色々と事情があるのだ。閉まる前に、行っておくべきなんだろうなぁと思うが、とくに用事がない。いや、用事がなくても行ってもいいはずなのだが、どうも家で考えていると、寂しさのあまりその店の賑やかな景色を見る気力がない。

 この世から消えてしまったものは、ただ記憶のなかに残るのみの存在となる。消えるとわかったときに、それならとできるだけの思い出や記憶というものを増やそうと努めるのか。それとも、悲しいし寂しいだけだから、思い出なんて余計に作らない方がいいと思うのか。わたしは悲観的な人間なので、偏っている考え方だと自覚していても、どうしても後者になりがちだ。

 だって実際に、店に行って立ったときに、やはりどっと寂寥感が湧いてきてしまったのだ。消えてしまう。こんなに人がいて、みんな惜しんでいるのに。「ここがなくなったら、もうここら辺には用事がないから来ないね」なんて会話も聞こえてくるのに。

 子どもの頃は、街とか国とかそういうものは、時間が経てば経つほど栄えるものだと思っていた。社会の仕組みはよくわからなくても、「衰退」という言葉は実感がなく、遠いものだった。

 さすがに大人になると色々見えてくる。一度衰退のスパイラルに入ってしまうと、そこから抜け出すのは至難だ。地域の人たちも「文化的、経済的にも大きな損失」と言われながら、どうにもできなく失ってしまう商業施設もあるのだし。何十年とかけて地域の経済を担ってきたにしては、あまりに呆気なく見える。

どんなものも、失うときはあっという間だな。などと、春先にあまり明るくないことを考えた。