後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

居心地のいい場所

 もうすぐ閉店してしまう店へ、せめて思い出作りに行こうかどうしようか迷っていたら、行ってきた母が、めちゃくちゃ混んでいて駐車場に入るのも並んだと言っていた。やはり、みな考えることは同じなのだ。閉店前の、一種祭りのような盛り上がり、乗っておいて思い出話にでもしたい気はするのだが、ここへ来て行く気を失いつつある。

 とくに用事はないしな。混んでるみたいだし、疲れるだろうしな。だいたい、あの店高いし。目的もなくふらふらしてもそれなりに楽しめるけど、なんか結局、自分にとってあの店は何だったのかを考えるより、あの店にとって自分はどんな客だったのかを考えると、それはそれで眉間に皺が寄ってくる。

 要は、そんなたいした上客でも常連客でもないのになー、と冷静になってしまうところもある。しかし、幼い頃からの思い出の店であることは、本当なのだ。それにわたしは、あの店の独特な空気が好きだった。他にない、特別な場所だった。だから閉店が決まったときはショックだったし、何ヶ月もそれを引きずっている。

 代わりになる店はないかと、普段はあまり行ったことのない地に出向いていたのも、その喪失から気を逸らしたいという思いがあったからだ。あの店に変わるような、なんというか、ちょっとしたときにそこの空気を感じるだけで華やかさや居心地のよさを感じられるような、そんな場所があって欲しいのだ。

 だが初めて行った場所は、思惑とは正反対の場所だった。「ここは自分にとって居心地のいい場所ではないなぁ、ホームではなく、どっちかといえばアウェー寄りだよなぁ」と感じてしまった。

 単に自分にとって不慣れな場所だったからだろうとは思えないのは、初めて行った場所でも、なぜか居心地がよくてしっくりくる場所というのは、あるからである。

 ある商業施設内にある本屋は、初めて行ったときに感動して興奮状態になるくらい居心地のいい空間だったが、しばらくして縮小されて、まったく面白みのない空間になってしまって、そのときもわたしは軽く落ち込んだ。

 何が要因なのだろう。人混みの具合か、客層か、導線か、品揃えか、建築物の構造か。そういう総合的な何かが、体感的な心地の良し悪しに影響するのだ。同じコンビニでも、なんとなく居やすい店と、居づらい店というものがあるように。

 場所の雰囲気というものが、人の精神に与える影響は大きい。もちろん個人差があり、それぞれ「いい感じだな」と思える基準は異なるだろうけど。とくにわたしは、自分の部屋や家が、あまり安らげる場所だと思えたことがないので、外部にそういう機能の代替を求めているのかもしれない。