後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

花見完了

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 もうこれ以上、桜のことで悩みたくない。天気もいいし、ちょいと寄り道して見てくるなら今だ。という衝動的な判断によって、無事に今年の桜を眺めてきたのだった。よかったよかった。

 するべき義務を果たし、肩の荷が下りた気分だ。そもそもそんな義務感を負う必要性など微塵もなく、自分が勝手に思い込んでいるだけなのだが、とにかくわたしはスッキリした。

 今日は本当に初夏の陽気だった。日中は半袖でもいいんじゃないかと思うくらいだった。ついこの前まで雪がちらついていたりもしたというのに、季節の変わり目は目まぐるしい。

 並木道を自転車で通っていくと、やはり桜目当てに散歩をしているような人たちがけっこういて、あちこちで花を写真に収めていた。なので、わたしもその中の一人として、安心して使い古しのガラケーを構えることができた。

 そうしていると、親と一緒に通り過ぎていった小さな子どもが「桜撮ってる人!」と反応していたので、小さな子の目には、大人が揃いも揃って桜を見上げて撮影をしている光景の方が奇異に見えるのかもしれないな、と考えた。

 写真を撮るためにガラケーのカメラ設定を確認すると、やはり解像度の設定を変えたまま忘れていたようだ、と気がついた。なので、今日の写真はいつもよりもサイズが大きい。どのくらいのサイズが適切なのか、未だによくわからない。

 慣れていないのでそれ以外の設定は弄らず、とりあえず花が咲いている枝に向けて、適当に撮る。屋外なので、眩しくて携帯の画面がよく見えず、反射した自分の間抜け面が映り込んでいてよくわからなかった。そのわりには、ちゃんと「桜の写真」にはなっているので、桜というものがそもそも優秀な被写体なのだろう。

 こうしてちゃんと記録を残すと、なんだか自分は生きて存在しているな、と自分で思う。写真の記録というのは、もともと存在の証明という色が濃いのだが、あまりに生々しくもあるので、自分が写るのは苦手だ。他人のことも、あまり撮りたいとは思わない。

 かといって、写真がそのままわたしの見ていた視点というわけでもない。ただ、わたしがその場へ行って、そこで撮った、という記憶がわたしのなかで確かなものになるというだけで、写真自体はただの画像データだ。わたしは写真との付き合い方が、未だによくわからない。