後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

些細なミスが怖い

 気がついたらまた左手人差し指の爪が割れていて、悲しかった。毎日使っているマーカーのキャップを閉めるときに、なぜか左手の親指と人差し指の間を挟んでしまい血が出たのも、悲しかった。歯を磨くときに使っているフロスが、勢いよく歯間に入って歯茎から血が出たのも、悲しかった。

 どれも些細な傷で、重篤な痛みも不便もないのだが、こういうことが連続すると、なんとなく情けない気分になる。やたら目の中に睫毛が入って痛くなるときも、そう思う。

 ちょっとした力加減のミスから、それは起こるのだ。些細な偶然なのだ。日常には、そういう失敗が嫌というほど溢れている。そのちょっとした加減や判断の失敗が、機械や道具の力で増幅されると、恐ろしい事故になる。アクセルとブレーキのペダルを踏み間違えるとか。

 マーカーのキャップで指の肉を少し挟んだくらいなら怪我の内にも入らないが、これがもっと危険な道具を使っているときに起こったミスだったら、と想像すると怖い。知り合いに、「とある仕事先の人は、機械で何本も指を失っているが、本人はわりとけろっとしている」みたいな話を聞かされたときの、ひやっとした感じを思い出す。

 他人の内心など想像しても仕方ないけれど、それはどういう心理状態なのだろう。諦めや許容の境地なのだろうか。他人の前だから、明るく振る舞ってみせているだけなのか。何にしろ、小さな傷口ひとつからあれこれと考えては心配を膨らませる、わたしのような人間にわかるはずもない。

 自分がそのような状況になったとき、どうなってしまうのか想像できない。昔は、そうした「仮想の危機的状況」には、わりと安易な想像をしていたものだ。若かったから。状況というものが、自分自身の意思や気持ちの持ちようでどうこうなるものではないと実感できたのは、現実のどうしようもなさにぶち当たって、実際どうにもならなかったからである。

 そこで図太く現実を受けて開き直れるような強さは、わたしにはないのだ。それがわかってしまったから、万が一の想像の不安は膨らむのだろう。受け入れてしまえる人の強さやある種の鈍さのようなものを羨むし、そんな考えに囚われること自体、小せぇ人間だなぁ、と思う。