後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

短期的で自動的な報酬が欲しい

 先日、「自虐」とはどこまでを指すのか、という内容の文をつらつらと書いてみたけれど、実は、それに似て非なるものとして無視できないのではないかと、「同調圧力と同族嫌悪」とか「自虐と露悪」とかについても考えていたのだが、さすがにそれを加えると文章があっちこっち飛んで戻ってこれなさそうだなー、と断念して削ったのであった。アレを書くだけでも、二時間以上かかってしまったので。

 というわけで、今日はまたゲームから色々考えた挙げ句のお話です。

 キャンペーン中なので、今日もグラブルをやっていたわけである。グラブルは、とにかくやることが色々ある。色々ありすぎて、時間がいくらあっても足らないと言われる。わたしもそう思う。

 しかし、わたしはもう大人なので、やれることがどれだけ多かろうが、それはやるべきことではない、と自分に言い聞かせなくてはならない。時間が足らないのなら、やることを自分で限定し、やらないことを決めるしかないのだ。優先順位だ。(えらそうに言っているけど、実践できているとは言っていないのがポイントです)

 つまりは「やれること」の中から、「やるのはしんどいもの」を除外すればいい。現実はそうはいかないが、ゲームは「めんどくさい」「しんどい」と思ったら、やめても投げだしても死ぬわけではないというのが、ありがたい。

 「しんどいけれど、面白い」とか、「つらいけど、ちょっと我慢すれば確実な見返りがある」だったらやってもいいと思う。しかし、「これをこれからもずーっと続けることを考えると、心が折れそう……」と感じるものは、さすがに避けた方がいい。(刀剣乱舞はそれでやめた)

 わたしがガチャに基本課金しないのも、その方針のためだ。過去に課金したときは、多いときでも一万円以内だったが、それでも、後悔や罪悪感のストレスで内臓が絞られるような心地になった。(このストレスを、同じコミュニティーの仲間との自虐で慰撫しはじめると、なかなか歯止めが利かなくなるということも学んだ。自虐の連帯には、そういう危ない一面もある)

 では、「やって苦痛ではないこと」とは何だろう、と考える。結論を言うと、結局前にも書いていた、「短期的で直接的な報酬が、確実に得られること」だった。たぶん、これも行動経済学の話題となると必ず出てくる、アレである。「人間は遠い未来の報酬よりも、近い将来の報酬に、より価値を見出す」というやつだ。

 ふと、わたしの思考はゲームから離れた。「ああ……この脳みその仕組みを、どうにかゲーム以外のところで上手く利用できないものか……」と。

 短期的で、確実で、肯定感や嬉しさを感じられるような報酬、ご褒美、成果……それらが用意できれば、わたしが今実行困難で悩んでいるアレやコレを処理できないか、と。

 そこで、ゲームと現実の違いは何かと考える。おそらく、システム化、自動化だ。原理は知っていても、そのシステムを自力で自動化できないところに、現実の難しさがある。(その仕組みでダイエットや禁煙、生活習慣を改善する試みが行われているのも知っている)

 「だから、それが自分で上手くできないから悩んでるんじゃないかー!」と、話はまた振り出しに戻った。現実はゲームと違って、厳しいのである。