後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

興味がないと残らない

 最近昼間は、冷房をつけっぱなしにしている。まだ六月なのに、とはもう考えないことにした。六月は、もはや初夏だ。その感覚で生きる。だいたい店に入っても、どこも冷房をつけている。初夏だ。

 窓を開けて風通しを良くすれば、過ごせないほどの暑さではない。しかし、風が入ってこないと、湿度がきつい。むしろ外で過ごしていた方が楽なのではないかと思う、この微妙な気候。

 昼食を買いに行くかどうか悩んでいたところへ、ついでに買ってきてもらった、ミニ冷やし中華とおにぎりを食べた。「やっぱり暑い日は、酸味のあるさっぱりしたものが美味しいよね」と、会話をしながら冷やし中華を食べていたのだから、実質初夏だ。

 自分で料理をつくると、どうしても具材に火を通すときに油を使ってしまうので、さっぱりとはならない。それはわたしが、ワンパターンな料理しかしないからだ。

 ツイッターをやっていると、たまに手軽に出来る美味しそうなレシピが出回っているのを見かけることがある。しかし、わたしはそれを見流すだけで、「どれどれ、わたしも作ってみるか」と思えたことがない。わたしは基本的に、料理が嫌いだからだ。

 嫌いなものの有益な情報を見たとしても、まったく心が反応しない。だからちょっと目に止まっても、「へー、美味しそうだねー。みんなこういう工夫やアイデアを持って料理しているのかぁ、すごいなー」と、完全に他人事として見てしまう。

 なら、自分はどのような実用情報になら反応するのだっけ、と考えてみたら、アレである。お絵かきノウハウみたいなやつである。これもまた需要があるのか、わたしの観測範囲だからか、数多く見かける。

 役に立つか立たないか、自分に合っているかいないかは別として、お絵かきノウハウやお絵かき論(技術論や精神論)、お薦めの本や資料の情報などは、見ているだけで面白い。

 つまり、情報というのは露骨なほどに、目に入っていても「興味や関心」といった引っかかりがなければ、自分の中には入ってこない。ネットにどれだけ多くの情報が溢れ返ろうが、人間個人のキャパシティーが限られている限り、享受できるものなんてとてもささやかだ。

 実はここらへん、ネットに触れ始めた昔、親戚に「ネットをやればやるほど世界が狭くなっていく感じがする……」と話したことがあるのだが、当時はおおいに笑われて終わった。あまり上手く伝えられなかったが、どれだけの情報や知識にアクセスできたところで、結局人は見たいものしか見ないし、知っていることしか読み解けないじゃないか、という話は、今ならとてもわかりやすいだろうにな。