後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

更新を待つ

 Windowsの更新があることを示すアイコンがタスクバーに表示されると、いつも不安な気持ちになる。万が一のことを考えてしまうと、「いや、更新のたびにいちいち不具合を心配してもしょうがない」と理性は訴えるのに、体の方が露骨に不具合を訴える。ストレスからくる自律神経のあれこれだろうか。指先は冷えきり、腹が下る。マジである。マジで、再起動に時間がかかるような重要な更新を待っていると、体調がおかしくなる。

 過去に一度、ひどく自律神経をやられたからだろう。その頃の心身の不調と、当時のPCの不調というのが実はある因果関係を持って重なっており、自分の中で条件付けられてしまっているようなのだ。

 ものすごく、厄介だと思う。

 これから先も、PCや機械がなくては生活できないだろうというのは明らかなのに、わたしの心身はその些細な不調や不具合に耐えられるほどの強さがない。

 無事に起動できれば、わたしの体調も元に戻る。よかったよかった、と安堵できるのはそのときだけで、しかし次の更新への不安は消えたわけではない。不具合があろうがなかろうが、この不安とストレスはわたしのなかに根付いて消えないのだ。

 自分で自分が、とてもめんどうくさい。

 不安症の一種なのだろうか。わたし自身、自分の精神状態がそれほど健康ではないことはわかっているが、それに対処する方法がわからない。わたしにできることは、ストップウォッチで経過時間を可視化することによって、自分が不安を感じている主観ほど、多くの時は経っていないと客観視することぐらいだ。

 なんとなく、そうして耐えているいたたまれない時間は、子どもの頃に大人に叱られて、与えられる罰を待っているような時間を思い出させる。おそらく、体感的には同質のものなのだろう。

 体というか脳にしみついた、ネガティブな記憶ばかりが鮮やかに再現されるのは悲しいことだ。わたし以上に悲観的な人というのも周りにいるが、その人は、十年二十年前に起こった「嫌なこと」や「嫌なニュース」を、まるで昨日のことのように何度も話す。そうして何度も反芻すれば、脳にも定着して自身の人生観とは切り離せなくなってしまうだろうな、と他人のことならよくわかる。

 実際、わたしも性懲りもなく同じことをしていたりはするのだ。他人を見るときには冷めた行動や言動を、わたし自身も無意識に、ときには意識しながらも繰り返している。それを省みるくらいの理性はあるが、あったところで制御はできない。

 なのでもう、更新を待つときは、PCの前にいない方がいいのだ。というか、いてはいけないのかもしれない。最近は、更新して再起動している間に、雑事をしたり雑談をしたりとするようにしていたのだが、今日はたまたま、久しぶりにがっつりと一人で夜中に更新と再起動を待ってしまったのがよくなかったのだろう。

 不安の元凶に向き合うのは、よくないことなのだ。気にして待つよりは、他のことをして忘れていた方がよいのだが、それでもどうしても気になってしまうのが、悲しいことである。