後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

ハンバーグ美味い

 今日の夕飯は、ハンバーグだった。

 わたしはハンバーグが好きだ。だからハンバーガーも好きだ。チーズが加われば、尚更好きだ。未だにハンバーグを食べるときは、ちょっと嬉しくなる。しかし、わたしの家族はさほど、ハンバーグを好きなわけではない。やはり、ハンバーグを好きなのはちょっと子どもっぽいというイメージもある。父などはハンバーグを好きではなかったらしく、夕食がハンバーグだとわたしが喜んでいるとき母が、「でもお父さんはあまり好きじゃないのよね」ということ言われた。理由を訊くと、「挽肉が好きではない」ということらしかった。

 父に直接訊ねたことはないが、どうやら肉料理といったら肉の原形を留めたものでなくてはならず、挽肉などは肉ではない、という好みと考えらしかった。たしかに、父は「肉の味」にはうるさかった。よく食べ物に関して文句をつけていた父であったが、わたしたち家族がどうにも理解しがたかったのは、「肉の味がしない」という文句だった。

 「肉の味」とは、具体的に何なんだろうか。それは挽肉にすると、消えてしまうようなものなのだろうか。たしかに、美味い肉には、肉独特の味があるような気はする。しかし、挽肉のハンバーグだって、加工したソーセージだって、肉は肉の味な気もする。

 わたしなど、そんな鋭敏な味覚をしている自覚はないので、ハンバーグはソースが美味ければそれで満足してしまう。あとチーズ。高級な肉の味なんて、覚えてしまったら後の人生がつらいだろう。

 今まで生きてきて、一番美味かった肉といえば、お盆に親類の家で食べた鶏肉だ。それは、たしか親族がわざわざ地方から取り寄せたものだったらしく、わたしの鶏肉の味の概念をガツンと突き抜けた美味さがあった。

 残念ながら、それがどこから取り寄せた、どういう鶏肉料理だったのかは、もう忘れてしまった。かなり昔のことだ。

 そして味とともに思い知ってしまった。つまり、本当に美味しいものを知っているかどうかというのは、食に対する、知識や情報や教養があるかどうかということだ。文化レベルだ。わたしはひそかに、戦慄した。知っている人は、より美味いものが食べられる。知らなければ、食べられない。残酷な差である。

 しかし、その美味かった鶏肉のことを何年も覚えている自分も、どうかと思う。

 美味いものに対する知識や情報が豊富なのは、はたして本当に幸福なことか。だって、美味いものって大抵高価じゃないか。そんなものを下手に食べて、舌を肥やしてしまうよりは、安い挽肉のハンバーグを美味しいと喜べる自分でいいんじゃないかな、とも考える。