後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

考えすぎる

 大雨情報を見ていたら、怖くて七夕気分など吹っ飛ぶのであった。

 天災は怖い。人の力では抗いようもない。自然環境というものは、本当に人類に優しくないよね、というようなことを夕食時に雑談した。雑談なので、具体的なことは話さずに、抽象的にスケールを大きくして隙を作るところがポイントだ。

 それ以外には、最近読んだ漫画の話とか、ネットで話題になっていたものの話くらいしかない。時事ネタもあるにはあるが(特大のがあったが)、あまり場が盛り上がる話でもなかった。

 余りものの麻婆豆腐を、余りものの玄米にかけて麻婆丼にして食べながら、夕飯は終わった。

 久しぶりに冷房がいらないほど涼しくなったが、またすぐに暑くなるのだろう。風呂上がりにガリガリ君ソーダ味を食べてしまったが、暑くない日でも、風呂上がりのガリガリ君は美味いのだった。

 そして片づけは相変わらず捗らない。せめて窓際にノートを積んでおくのはやめたいな、と思っているのに、空いているスペースが丁度いいので、いつもそこに積んでしまう。

 思考が邪魔なのだ。そんなことはわかっている。考えすぎるから、実行に移せないのだ。母の即断即決などを見ているといつも羨ましく思うのだが、同時に恐ろしさも感じてしまう。考えずに行動するということは、わたしにとっては、恐怖を克服するという意味と同じだ。失敗の不安や恐怖が前提にあるからこそ、わたしの頭は常に最悪の事態を想像せずにはいられないし、それが自分に制限をかける。

 そんなことはわかっている。

 というわけで、わたしはいつも「うーん、なんとか考えすぎない方法はないだろうか」みたいなことを考え込むというループに陥っていく。考えすぎない。これはとても難しいことだ。

 人間の不幸は、未来予測をしてしまうことだという。「今」「ここ」「自分」だけで認識が完結してくれない。周囲の反応だとか、他人の内心だとか、明日の天気だとか、可能性という可能性を無視できない。そこに、はたして主観以上の根拠があるのかどうかもわからないのに、だ。

 だから大雨のニュースを見ても、「これ以上酷い災害にならなければいいけど……」と、離れた場所のことでも不安になってしまう。それを考えている間に、積んだものの一つでも片づけられる方が合理的なのだろうけど。