後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

話したら脳が疲れた

 久しぶりに母と真面目な話をしてしまったので、とても疲れた。精神的に疲れた。というか、精神が疲れるということは、脳に負荷がかかったということなので、脳が疲れたという方が正確かもしれない。脳が、フワフワしている。

 わたしはとても落ち込んでいる。それは昨夜の、ある気づきが原因だ。その事象自体は前々からあったものだし、ある意味「仕方のない」ことだと諦めてもいたし、薄々わかってもいたことだけれど、実際に目の当たりにして現実を実感してしまうことによって、「もう嫌だ、こんな状況がいつまでつづくんだ。これがこのまま続けば、どうしようもなく悪化する未来しか見えない。耐えられない」と、久しぶりにメンタルがやられた。

 それでも、数年前の最悪の状態よりはかなりマシであることも自覚していて、時間が経てば回復はできるということも、わかっている。

 その愚痴をきっかけにして、会話をしたのだ。

 まあ、きつい。話している間は、勢いもあるし、言いたいことは色々あるし、ときに感情に流され話がとりとめもなくなることはあっても、相手の顔色や反応を見ながら修正したり、フォローしたり、それくらいはできるのである。母は、まだ「対話」ができる人であり、こちらの言うことをまともに聞いてくれる人であるという信頼もある。

 しかし、価値観という前提条件が異なる話題に関しては、どうにもズレがある。ここを、相手が理解していないのだと気づいて、説明したり修正したり、ただ自分はこういう状態なのだ、と伝えるだけの会話が、とても疲れる。そしてその状態から見えている現状と、それぞれの人物に対する認識と、将来に対しての予測を、こう考えている――等々を話す。

 日頃は実のない雑談しかしていないから、たまにこういう深刻な話をするのは、大変なエネルギーがいる。そのせいか、会話が終わった後も、一日ずーっとそれを引きずって気怠く無気力になってしまうのである。

 後悔する。わたしは一体、何を口走ったのかと。それは本当に、わたしの考えなのか本心なのか。どこまで相手に伝わっただろうか。かえって誤解を招きはしなかっただろうか。これが母相手だからまだいいが、他人との会話だった場合、落ち込みは更に酷くなることをわたしは知っている。

 あまりに一気に話してしまったので、自分の中でも、実はしゃべったことの整理なんてできていない。もはや忘れかけていることもある。脳に負荷がかかったので、記憶力も落ちているのだろうか。

 とにかく、そんな感じだった。

 テーマとしては、『自己肯定感の回復』だ。

 わたしはこの数年間で、自分なりにいくつかの実践を試みてきたし、そのいくつかは習慣化することにも成功したが、いまだにその効果を実感できるような結果を得ていない、と。

 とすると、やはりそれはわたしが忌避しつづけていた、他者との交流、コミュニケーションによる承認がどうしても必要なのではないかということと、しかしわたしの性格上、それがいかに困難かという話だ。

 母としては常々、対人コミュニケーションの肯定派であり、社交性のあるポジティブな人であるからして、わたしの結論には賛同するのだ。しかし問題は、「それが実際にはいかに困難か」という現実を、あまり深刻に認識してくれないところにある。

 実は、ここで何年も対話ができずに固まっていたのだ。それに気づいてからも、それを説明するのに何年もかかった。今でも、理解してもらえているのかわからない。

 わたしのような人間が、病院への予約として電話をかけるのにも数日は悩みつづけるということ。友人からの遊びの誘いも、嬉しく思いながらも精神的なプレッシャーとなって情緒的に不安定になること。信頼する人との会話を楽しみ交流しながらも、その後一人になると、死にたいほどに後悔し落ち込まずにはいられないこと。「気にしすぎ」だと頭でわかっていることでも、「気にしないようにすること」自体は不可能なのだということ。

 そんな人間が、対人コミュニケーションによって自己肯定の希望を見出すことは難しい、ということ。

 まあ、実際にはもっと他のことを話したりもしたし、それはわたし自身の話なわけでもなかったが、おおまかに圧縮するとそんな感じの話である。

 疲れたので、わたしはその後、コンビニでティラミスとポテチを買って食った。結論や解決策などは、もちろん出ない。ただいくつかの仮説と、多少はマシになればという消極的な提案があっただけであり、先は見えない。