後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

『マシュマロ・テスト 成功する子・しない子』の感想

 読み終わった。

 色々考えさせられることが多くて面白かったけど、「成功する子・しない子」という副題は適切なのかわからない。著者は「誤解されてしまいがちだけど、成功するかしないかは子どものときに決まってしまうものではない」というようなことを強調しているので。

 気になるところがありすぎて上手く消化できていないが、とりあえず自分のためにまとめてみる。まとめ能力ないので、自分のための覚え書きになっています、長いです、あしからず。

 

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 三部構成。全二十章。気になった部分が多かったのは二部(八章~十七章)なので、そこを中心に。

 

第8章 成功の原動力――「できると思う!」

 実行機能――コントロールのためのスキル

実行機能は、思考や衝動、行動、情動に対して、思慮深く意識的なコントロールを行うのを可能にする認知的なスキルだ。実行機能は私たちに、衝動的な欲求を抑制したり「冷却」したり、目標を追求できるようなかたちで考えたり注意を柔軟に使ったりする自由を与えてくれる。

 

 首尾良く待てた子は、それぞれ独自のやり方で自制したが、彼らはみな、実行機能の三つの特徴を共有していた。 第一に、自分が選んだ目的とそれに付随する条件(「もし今ひとつ食べたら、あとで二つもらえない」)を記憶し、たえず頭に浮かべておくこと。第二に、目的に向かってどれだけ進んでいるかを確認し、目的志向の思考と、誘惑を和らげるテクニックとのあいだで、注意と認知作用のスイッチを柔軟に入れ替えて、必要な修正を行うこと。第三に、目的を達成するのを妨げるような、衝動的な反応(誘惑のもとがどれほど魅力的かを考える、手を伸ばしてそれに触れようとする)を抑え込むこと。

 この「実行機能」というワードは重要らしく、後々何度も出てくるけれど、理解せずに読み流してしまうところだった。危ない。

 思考や感情を認知的にコントロールすると言うことは、「想像力と共感」であり、「ミラーニューロン」に関係しているのかもしれないという話も興味深かった。共感というのは情動的な働きではなく、客観的で冷静な認知能力なのか。たしかに、情動に身を任せているときの頭は後に出てくる「自己没頭」的であって、他者の存在は頭から消えているものな。

 

第9章 将来の自分

 耳に痛い話だった。それこそ若い頃の自分は、この能力がまるきり欠けていて、将来の自分を現実の自分だと認識する能力がなかった。未来のことを深刻(この本で言うところの「ホット」)に考えない自分を「ポジティブで楽観的」だとすら思っていた。あー、怖い怖い。

 

第10章 「今、ここ」を乗り越える

 未来の予定を現実的なものとして認知するのは難しい。つい細部に対する想像力が疎かになったまま判断してしまうというのもよくあることだ。しかし最近のわたしは、不測の事態に警戒するあまり、未来の予定に対してリスクばかりを考えてしまい、身動きが取れなくなってしまうことの方が多くなっている。クールシステムが効き過ぎることの弊害も、たしかにある。

 この章では「監視者(モニター)」「感覚を鈍らせる人(プランター)」という言葉が出てくる。たとえば、自分が将来癌になる確率がかなり高いということを、告知された方が安心する人か、されない方が安心する人か(どちらがよりストレスになるか)、という意味らしい。

「飛行機に乗っていて、目的地まであと三〇分というときに、ふいに飛行機が急降下し、そのあと急に水平飛行に戻りました。しばらくして、パイロットがアナウンスします。何の異常もありません、ただし、着陸まで、かなり揺れるかもしれませんが、と。けれどあなたには、万事順調だとはとても思えません」

 この飛行機の乗客だったとしたら、あなたは「異音がしないかエンジンの音に耳を澄ませ、乗務員の行動に通常と違う点がないか見守りますか?」それとも、「すでに見たことがあっても、映画を最後まで見ますか?」と問われる。

 わたしはあきらかに「プランター」だ。知りたくない。絶対に知りたくない。

 

第11章 傷ついた自分を守る――自分と距離を置く

 負の記憶を反芻してはいけない。これも身につまされる話だ。理不尽な状況や他人に対する苛立ちや怒りは、つい思い出してはそのことばかり考えてしまう。考えてストレスが溜まってイライラしはじめ、ああいけない、と反省する。また不毛な時間を過ごして自分の脳細胞に負荷をかけてしまったと、余計に落ち込む。この本でも説明されているような、ネガティブなサイクルを何度も繰り返して生きている。

 この章では「壁に止まったハエのように」客観視し、自分の心を抽象化しろとある。なるほど、自分もそのようにして何とか冷静さを保とうとすることは、以前から多少はしていたものだ。

 そう、少し距離を置いて、頭を冷やして、相手のことを考えてみると分かることもある。「あの人はもともとそういう人なのだ。自分でも自分のことをコントロールできないことに苦しんでいる」「あの人が基本的に善人なのは知っている。今は健康がよくないし、歳も取ってきたから余計に自制心が低下して、それが自分でも悔しいのだろう」――そんなふうに、ひとつひとつ噛み砕いて相手との関係性を「冷却」しようと堪えてきたこともある。まあ、結果から言うと、それだけで対人関係ストレスから解放されるのは無理なんですけどね。(だめだ思い出すとまた辛くなってくる)

 その反対に、自分の視点で自分の感情を情動的に訴えることは「自己没頭の視点」とここでは説明されている。あー、はいはい。これも分かります。たしかに自己没頭している文章というものは「ホット」すぎて伝わりにくく読みにくい。(自己没頭の形に見せかけて上手く書く人もいるけれど、それは文章の技法であって本当にホットなわけではない)

 わたしが他人に見せない自分だけの日記というものがなかなか続かない理由は、ここにある。自己没頭が酷すぎて落ち込みが強化され、どんどん自己否定的になっていく。基本的に自分のことしか興味がない人間なので(余裕がないから)、常に頭の中が自分の感情や思考で渦巻いていて、あまり他のことに割く余地がない。だから余計に、「自分しか見ない文章」などというものを書くと、支離滅裂で自罰的、攻撃的なものに偏っていく。

 ちょっと話が脱線するが、わたしは以前(2011年)に、日記習慣をつけようとチャレンジして失敗している。あるノート術を倣って、その日にあった出来事を記して、なるべくポジティブな点数で評価する、みたいなやつ。それを始めてからまもなく震災があったことも関係しているけれど、出来事にポジティブな評価をするというのが苦痛で無理だった。

 面白くもないのに笑えないし、苦しくてつらいのに楽しいふりをするのは、疲れた。周りのご機嫌をうかがって空気を読んで、ずっとポジティブを装ってきた(そしてそれは何の益もなく崩壊した)のに、この上自分で自分を騙して慰めるなんて惨めすぎる。なんで自分しか見ない日記にまで、誰かに気を使うように自分に気を使わなきゃならないの? と。

 それが、落ち込んでネガティブになっているときの気持ちだ。たとえそれが認知行動療法の一環であることを知っていても、自分のネガティブな感情をむりやり否定しようと努力するのは、自己否定となってしまうので苦しくつらい。

多くの人や問題にとって、治癒効果のある変化を起こすには、自分を遠ざけるのが欠かせないことを、認知行動療法のセラピストもしだいに認めるようになってきている。彼らは、自分の信念や認識が、ひと通りにしか受け取りようのない絶対的真実を示すものではなく、「現実」の一解釈にすぎないと患者が気づくように導くことで、たとえつかのまであっても、患者が「自己没頭」型の視点から逃れられるように、手助けしようとする。患者は、自分の気持ちや行動から一歩離れ、距離を置いて自分を観察することを学ぶ。これはこれまでと違う思考法、すなわち、より建設的に、そして、あまり情動的苦痛をもたらさないで自分や自分の体験について考える、新たな方法を探すための準備段階だ。

 なるほどつまりわたしは、その「準備段階」を日記という手段では乗り越えられなかったのだ。

 よく、個人的な思いを訴える文章がネットに上げられたときに「チラシの裏(個人の日記帳)にでも書いとけ」という反応がある。自己没頭すぎて「冷却」されていない類の文章は、他人が読んでも理解も共感も難しいし、個人的な手記に留めた方がよいということだろう。

 ただ自分の場合、本当にそれをやってしまうと自己没頭が過ぎて、まったく「冷却」できなくなる。ツイッターにしろブログにしろ、こうして他者に見られる可能性を頭の隅に置いておかないと、自分の文章を最低限客観的に整えようという気力が湧かないのだ。

 その他に興味深かったのは、心の痛みは体の痛みと同等であり、心の痛みには実際に痛み止めの薬が有効だという話だ。たしかに、頭痛や腹痛のときに薬を飲むと、痛みが消えるだけでなく、みょうに気分が明るく前向きになるということがよくある。……そんなに始終わたしの心は痛んでいるのだろうか。薬、飲んどいた方がいいのだろうか……。

 

第12章 つらい情動を「冷却」する

 ここでは、「拒絶感受性(RS)」という言葉が出てくる。

「高RS」の人は、緊密な関係にある相手から拒絶されるのを極端に気にかけ、自分が「見捨てられる」のではないかと心配し、自らの行動を通して、自分が恐れているまさにその拒絶を誘うことがよくある。

 自制能力の重要性が、対人関係の面からくり返されている。

 

第13章 心理的な免疫系

 これもあるあるというか、肯定的な自己評価バイアスの話。

 情動に負けて誤った行動や選択をしてしまっても、理性がそれを正当化して自分の心を守ろうとする働きのこと。

 まあ何らかの暴力的な加害者だって「そうするしかなかった」「仕方なかった」「相手が悪かった」と主張するものである。減刑や他者に対する弁明のためというだけでなく、自分自身にそう言い聞かせ、自分はそんなに愚かではない悪人ではないと自尊心を慰撫するためでもあるのかもしれない。

 ところで、現実をより客観的に見る能力にかけては、健康な人よりも鬱になっている人の方が優れている、という説をネットでも見かけることがあるが――

ポジティブな幻想と自己高揚は、自らを守るためにネガティブな個人的特徴を否定するもので、誇張と神経症的なナルシシズムの表れであり、自分のネガティブな特性を抑圧する試みには、大きな生物学的代償が伴う、ということになっている。だが実際には、ポジティブな幻想も含め、ポジティブで自己肯定的な精神状態は(現実を極端に歪めていないかぎり)、健全な生理的機能や神経内分泌機能を高め、ストレスのレベルの低下につながる。それに対して、自分のことをもっと正確に認識している現実主義者は、自尊心が低く、鬱を多く経験し、一般に心身の健康状態が劣る。逆に、より健康な人の自己認識には、たとえいくぶん幻想が交じったものであっても、温かな幸福感が伴う。

 

鬱の人は、私たちが予想していたように暗いレンズを通して自分をネガティブに眺めるのにはほど遠く、むしろ「完璧」な視力に祟られていた。ほかの患者や対照群と比べて、ポジティブな特性に関する彼らの自己評価は、観察者による評価に最も近かった。これとは対照的に、鬱ではない神経科の患者や対照群は、自己評価のときに水増しし、観察者が見て取った以上に自分のことをポジティブに見ていた。自分を評価するときに、鬱の患者はほかの人が使っていたようなバラ色の眼鏡をまったく使わずに自分を眺めていたのだ。

 ……そう。現実に対する認識能力が優れていても、心身を病みやすかったらちっとも生きやすくないんだから、何の慰めにもなんねーよ、とその手の脳天気なネタ(鬱病の人はかしこい! 凄い! みたいな、絶対に鬱の苦しさを理解していないだろう漫画)がツイッターで回ってきたときには思ったものだった。逆だよ逆、鬱になった人間はかしこい現実主義者なのではなく、自己評価に対して肯定的なバイアスのない現実主義者は鬱になりやすいってことだ。鬱になるくらいなら、アホでも幻想でもいいからポジティブでありたかったよ……。

 私憤があるので、ついそんなことを思い返してまた感情的(ホット)になってしまった。ほんと自制機能弱いな、自分。

 

第14章 賢い人が愚かな振る舞いをするとき

 これも誰もが一度くらいは疑問に思う話なのではないだろうか。地位や立場のある人が、どうしてあんな愚かなことをするのだろうか、と。しかし、クリントンはよく例に出されるな。仕方ないんだろうけど。

 ここで説明されているのは、自制心というのは認知的なスキルであって、動機付けによってその使い方は変わるということ。まあ、そうだろうな……。

紙面にスキャンダルをすっぱ抜かれた多くの有名人や名士は、たぶん誘惑に抗いたくなかったのだろう。それどころか、彼らは往々にして誘惑を探し求めて追求することに相当な努力を費やしたようだ。彼らは楽観的な幻想と過剰な自尊心(これは人間誰もが持っているが、彼らの場合はなおさら強烈なのかもしれない)のせいで、自分は何をやっても大丈夫だと思ったのだろう。たとえ過去に何かやらかしてそれが露見したことがあったとしても、今度は見つかるとは思っていなかった。また、秘密が明るみに出た場合でも、処罰を免れるだろうと信じてもいた。彼らの過去の経験を考えると、そんな期待を抱いていてもおかしくはない。自分には通常のルールが免除されると資格があるという勝手な理屈を作り出したり、さほど権力のない人々にはできないようなことをしたりするのは、成功と権力を手にしてきた彼らの経歴にも一因があるのだろう。

 なかなか痛烈なのが面白く印象に残ったので、ちょっと長めに引用してみた。

 前章にあるように、人間というものは基本的に自分に甘いもので、欲望に負けることの正当化をしてしまいがちであるが、それが権力者や成功者になると特に酷くなってしまうこともあるのかもしれない。バラ色の眼鏡は、諸刃の剣なのだな。

 

第15章 「イフ・ゼン(もし~したら、そのときには~)」に見られる人格の表出パターン

 「人格の通状況的一貫性」とは異なる、情動の「ホットスポット(行動における人格の表出パターン)」の話。

 「ある状況下ではとても誠実な人でも、異なる状況下においてはそうではない」というのも、よくある話。その場合、その人にとっての誠実さ(あるいは攻撃性のような、情動的な反応)は、「一貫性がない」のではなく、状況が変わることによってそれが特に強く出るパターンがあるのだ、という。

 日記をつけることが認知行動療法的に有効なのは、この「ホットスポット」(どのような状況に反応するのか)を自覚するためでもあるというのは、なるほどなーと納得。そうなると、自己没頭的な日記であってもあとから見直せば、自分の情動パターンの分析には役に立つのだろうか?

 

第16章 麻痺した意志

 恐怖症の治療についての話。例えとして、『橋の上の天使』と『英国王のスピーチ』という二本の映画が出てくる。(『英国王のスピーチ』は見たことがある)

 恐怖心を刺激する条件と、その反応の結びつきをどうやって弱めればよいかという話。

 

第17章 疲労した意志

 「子どもがどうやって自己基準を獲得するのかを調べる実験」の話が面白かった。

 自分に厳しく子どもにも厳しいモデル(大人)を見たときには、子どもは自分にも厳しい基準を課し、自分には厳しく子どもに甘いなら、子どもは甘い基準になる。自分に甘く子どもに厳しいときには、半々。

 考えてみれば当たり前のことだけれど、子どもは大人のやり方を倣う。そりゃそうだ。

 「動機付けと努力」の話は、『やり抜く力 GRIT』の内容に近い。しかし、SEAL(合衆国海軍特殊部隊)隊員の話となると、どう想像しても他人事である。

 

 

 その他雑感。

 他にも、自制心の弱い人間の方が投資で大損しないとか、みんな大好きマインドフルネスとか、『セサミストリート』でもマシュマロ・テストのエピソードをやっていたとか、色々なエピソードがあったですよ。

 納得できる話も、参考にできる話も多く、とても読み応えはあったけど、こういう本は自分に必要なところだけ適当に摘まむのがよいだろうとは思う。(まあ摘まむにしても、こうして自分でまとめ作業でもやらないと、まともに頭にも残らないのだが)

 そこら辺、fMRIから導きだされた結果は、まだ一つの仮定にすぎないと説明してしてくれていた『なぜ本番でしくじるのか プレッシャーに強い人と弱い人』も、面白い本だった。

 

 以上。

 疲れた……。この手の本を読んだときには、気になった部分を手書きでノートに写すという作業をやっているのだが、それをブログでやってみたらどうなるだろう? という思いつきで書いてみたのだが、約7時間半かかった……。何やってたんだろう自分……。

(……下書き保存しようと思ったら、一度公開してしまい焦った)