後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

記憶には触れない

 最初はお題である「おじいちゃん、おばあちゃんのこと」にでもチャレンジしようかと思ったのだが、案の定ネガティブなわたしは暗い記憶の扉を開けてしまったので、今ちょっと落ち込んでいる。

 当時「認知症」という言葉がまだ浸透していなかった頃の、我が家のアレコレを思い出し、祖母の死と連鎖的に父の死などを思い出し、人の尊厳とは何だろう、人間の一生とは何なのだろうという虚しさと憤りを感じている。

 なので、お題チャレンジは無理だ。

 しかし、記憶というものは厄介だ。何を覚えていて何を忘れるか、自分の意思では決められないのだから。わたしの人生、それなりに楽しいことも良いこともあったはずだし、その片鱗は記憶の隅に引っかかっていると感じることはあるものの、もうそのときの鮮やかな感情は思い出せない。思い出しても、干からびた標本でも見るような、無感動な気持ちだ。

 ああ、まあ、あの頃はそんなこともあったね。若かったし愚かだったから、そんなことも楽しかったし、意味があると思えていた。空虚な夢を見ていたなぁ。何も知らないだけだったのに。今ではただの、恥だ。

 そもそもわたしは、あまり自分の過去を覚えていない。嫌な記憶、後悔の記憶ばかりはよく残っているのに、その他の、いつ、どこで、何があったのか、というような単純な事実関係の記憶や、親しかった人の顔も名前も覚えていないのだ。

 これに気づいて自覚したときは、ちょっとぞっとした。

 以前「鬱になりやすい人間は記憶力が弱い」というような説を目にしたことがあるが、それかもしれないと思った。ストレスに弱い人間は、自分を守るために忘却機能が働きやすいとかなんとか。どこまで信憑性があるのかはわからないけれど。まあ、わたしは忘れっぽい。自分に興味のないことは覚えない。

 しかし、わたし以上にネガティブで、十年二十年も前のことを昨日のように愚痴る家族が身近にいたものだから、それに比べればまだわたしの方がポジティブだったのだ。だが最近はそうでもなくなってきている。

 よくない。まあ、よくはない。

 ただそれだけの話で、オチはない。