後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

二年の成果を感じない

 人生の下り坂を感じるにつれ、体力の衰えに危機を感じ、運動習慣をつけはじめてから二年たった。焼け石に水のような足掻きだとしても、とりあえず二年は続けられたこと自体は褒められてもいいのではないだろうかと遠くを見る中年、それがわたし。

 とはいえ、最近体重計に乗りながら微量とはいえ着実に増え続けている気配に「……解せぬ」と、不穏な心持ちにならざるをえない中年、それもわたし。

 運動とは何なのだろう。わたしのそれは、身体機能が平均以下になって怪我や病気にでもなった場合そこから回復するのはとても大変だということを思い知ってから、予防策として取り入れたものなので、ダイエット目的ではなかったはずなのだが。しかし、「人並みの身体能力の維持」などというかったるく達成感もない、目に見える変化のない目的よりは、運動を始める前よりは腹が締まったとかいう効果があった方が嬉しいに決まっているのだ。

 いや、しかし腹は減らない。そう簡単には減らないということは情報として知ってはいたものの、本当に減らないものなんだなぁと実感する。多少は減ったけれども、結局また戻ってきている気がする。

 腹筋運動を取り入れ、おそらく二年前よりかは確実に腹筋もついている感はあるのだが、そこを覆っている脂肪はなかなか落ちない。歳のせいだろうか。食生活のせいだろうか。一応プランクというのもやってみて、一時は三分くらいできたのだが、とてもしんどいので今は結局二分になっている。まあ最初は三十秒でもきついから、二分できるならそれを続ければいいんじゃないという気持ちだ。個人が自宅で自発的にやれる運動には、限界がある。

 持続することだけが、かろうじて自分を支えているとも言える。この前書いた掃除と同じだ。徒労とも思えることでも、腐らず生活のなかで続けられること。それが理性や自制心の最後の砦という気もする。同時に、優先順位を見誤る逃避的な行動になってしまう危うさも感じる。たぶん、どちらの側面もあるのだ。

 人のバランスというのは、どうしてこうも複雑で危ういのか。やることなすことに人生の落とし穴があるという、実に厄介な生き物だ。ちょっとでも嫌気がさして自暴自棄になると、そうして積み上げた微々たるものはあっというまに霧散してしまう。それに気づくのが遅かったな、と思うことばかりだ。

 しかたないので、今日も明日も微々たる運動は続けていくのだろう。だが、そのうち何もかも嫌になって投げ出さないという自信も、実はあまりない。