後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

あてもなく読む

 今日はツイッターを見ていたら、小学生の頃に図書室の本を隠した云々の話題があった。ちなみに話題になっているのを見ただけで、当該の記事は読んでいない。

 「変なことをするもんだなぁ、自分が子どもの頃にもそんなことはしなかったし、他人がしたという話も聞かないし、隠されていたという話題すらなかった。借りたまま返さない人がいたり、本が破損したりとかはあっただろうけど。隠す? なぜ?」というのが正直な感想だった。

 そう思っていたら、「図書室がまともに機能しておらず図書館に行くこともできなかったので、隠しておくしか読みたい本を読めなかった」という意見を見た。それに対して「自分だって似たような環境だったけどそんなことはしなかった」と更に不快感を表明している人も見た。

 「はあ、なんというか当たり前だけれど、子ども時代の図書環境というのも人それぞれなんだねぇ」と、自分のところは恵まれていた方だったのかな、などと思った。

 そうして思い返してみると、たしかに我が小学校は平和だった。わたしも本を読むのは好きだったので、図書室もよく利用していた。ちょっと子ども向けに訳されたミステリーや、児童文学、童話集などを読んでいた。なにしろ、他に娯楽もなかった。ゲームもネットもない時代だ。

 今から思うと、のんびりしていた。その読書体験が実になっているかどうかは、いまいち自信がない。なにしろ、その頃からわたしはわりと適当に本を選んでいた。わたしの読書は、とくに読みたい本や目当ての本というものはなく、ある程度興味のあるジャンルから、タイトルや表紙を見て直感で読むことが多かった。目的意識を持つのが苦手というのはその頃から変わらないのだろう。よくない。

 そういえば、わたしには本好きの人によくあるような「ひとに薦めたい本」だとか「わたしの人生を変えた本」みたいなものが、ないな。うん、まったくない。いや、そこそこ大きな影響は受けたなと思える作品や作家はあるのだが、「これ」と言い切れるようなものがない。

 それを思うと、わたしの本好きさなんて、べつに本好きの部類に入らないしょっぱいものだったんだろうな、という気になってくる。

 まあ、それでもいいのだ。本なんて、読みたいときに読みたいものを読めばいいのだ。そう開き直って、近年ようやく読書をする気力が戻ってきたのだ。本を読める精神状態くらいはなんとか維持して生きていきたいものである。