後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

給湯器が故障した

 給湯器が壊れた。修理が来るのは来週になるので、しばらく家の風呂には入れない。

 困った。困ったけれど、どうしようもない。

 しかし、家の風呂に入れないということは、風呂に入るために毎日必ずやっていた風呂掃除をしなくてもいいということでもある。奇しくもわたしは、家の雑事から一つ解放された。風呂に入れない、という不都合を一つ引き受けることによって。

 困った。風呂掃除をしなくていいということは、風呂掃除のために費やされているわたしの精神的な負担からも自由にしてくれた。時間にして五分程度のささやかな作業ではあるが、一日の間、風呂掃除をまだ終えていないわたしの頭の中には、常に「あー、今日はまだ掃除してない、やらなきゃ」という義務感が残っている。家の中でネットをしてもゲームをしても、外出して買い物してコーヒーを飲んでいても、絶対に頭の片隅に「あー、やらなきゃ、やらなきゃ」と警鐘を鳴らしている。

 もちろん、これは風呂掃除に限らず、その日のうちにこなしておかなければいけない日課や雑事、課題のすべてに当てはまる。だが、たった五分で終えるはずの作業にしては、わたしの脳内でチクチクと落ち着かなく責めたてる度合いがやたら大きかったのではないのか? と、たった一日解放されただけで思い知る。

 現代人は、日々「やるべき事」が多すぎる。それがストレスとなって脳のリソースを消費し、人々を疲弊させる――みたいな説はよく見聞きするが、まさにそういうことなんだろう。

 どんな些細なことでも、「やらなくてはいけない事」があると、わたしはそれにずうっと悩んでしまう。億劫で体が動かないときも、他に用事があってそれを済ませてしまわなければいけないときも、義務と罪悪感のようなものが始終意識を責めているのだ。なるほど、そうした精神状態を指して「自分に対する約束」とはよく言ったものだ。

 「約束は守らなければならない」という規範が自分の中で強いと、そのストレスは強くなる。わたしは風呂を掃除しなくてはならないし、飯を作らなくてはならないし、歯を磨いたり、着替えたり、返却日までに本を読み終えたり、健康のために運動をしなければならない。べつにそれを破ったからといって、何かペナルティーがあるわけではないのに。

 自分一人の食事なら、どんなに雑でも誰も文句は言わない。歯を磨かなくても、家の中でダラダラしているなら着替えなくてもいいし、本だって読み終えないまま返しても大丈夫なのだ。運動しなくても、べつに誰かに叱られるわけでもない。

 でも、「やらなくてはいけない事のような気がする」のは、自分に課した約束だからだ。それを破ってしまったら、劣等感や罪悪感といったものが襲いかかってくることを知っている。

 あるいは、そうしたささやかな「約束」を守ることによって、ある種の自尊心を保っているとも思える。だから掃除を終えたときには解放感があるし、スッキリする。悪いことばかりとも言えないのが難しいところだ。

 最終的な理想を言えば、わたしはそんな労苦からはなるべく解放されたい。面倒で煩わしい、ストレスの多い家事や雑事なんて、やらないならやらないでこしたことはない。どうせその代わりの「約束」はすぐにみつかり、あっという間にわたしの脳を同じ焦燥感で責めたてるに決まっているのだ。