本を読んだり
今日もマクドナルドへ行って、本を読んでいた。おかげで、ようやく一冊読み切った。なぜわたしは家で集中して本を読めなくなってしまったのだろう、と思うと哀しいものがある。家には、誘惑とストレスの元凶が多すぎる。わたしの意志ではとても太刀打ちできない。
アイスコーヒーのMサイズを飲みながら、「しまった、このサイズだとゆっくりとは飲めるけど、シロップが足りない」と、気づいた。まあ、飲めなくはないのだけれど、甘いコーヒーが好きな人間には少々味気なかった。この件については次から気をつけなければならない。
読んでいた本は、有名な賞を取った十六年ほど前の文芸作品で、図書館で適当に選んで借りたものだ。この前は「小説についての本」を連続して読んだので、今回はいい加減小説そのものを読もうと、これまで読んだことのない作家ばかりを借りてみた。
いわゆる私小説だな、と読み終わってようやく確信した。べつに私小説も読むのは初めてではないので読んでいるうちに分かるのだが、途中からいきなり方向転換する可能性もあるから確信が持てなかった。
しかし私小説というやつは、どうしてこう唐突に突き放したような、オチのないぶつ切れの終わり方をするのだろう、と思った。いや、そういう読後感も嫌いじゃないんだけど。他の人はどうやってこの放りっぱなし感を消化しているのだろう、と気になった。それとも、わたしの文学を摂取する量が足りてないからだろうか。その可能性は高そうだ。
読み終わった本をネットのサービスに登録すると同時に、他の既読者の感想を見る。文学作品はエンタメ作品よりも、何かわかった風な感想を書いている人が多いような気がする。それが的を射ているのかいないのか、そもそもわたしには判断しかねるが。
家に帰ってから、この勢いを忘れまじと二冊目を読み始める。こちらは多分一冊目よりはライトなエンタメだろうと判断して借りたものだ。プロローグからして、「あ、ちょっと、合わないかも」という予感がしてきた。べつにジュブナイルものじゃないよな、と確認する。作者も、巻末にあるプロフィールを見るとわたしよりは一回り年上のはずである。
三分の一ほどを読んだ時点で、「うん……とくに嫌いとか不快な要素は何もないけど、なんか人物を話の都合に合わせて動かしてるのか、倫理観がちょっとずれてるように感じるというか、誰一人共感も好意も抱けない」と思った。ちなみに、なぜその本を選んでしまったのかというと、装丁がきれいだったからだ。本の作りが好みだった。図書館でぱらぱらと捲って見た時点で、「なんか薄味そうだな。こういうのは当たり外れが大きそうだけど、まあ試しに読んでみよう」と思った勘はそんなに間違っていなかった。
とはいえ、まだ途中ではあるのでこれから面白くなる可能性もなくはない。