後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

くつろげないカフェ

 今日は普段あまり行かない場所に出かけたので、疲れた。地図は確認していたので目当ての場所はすぐにわかったのだが、ついでに寄ろうとした周辺の店を探すのに手間取った。「たしか通りはこっちの方角だったはず」と進んだら、まったく見当違いの方向に進んでいた。一〇分ほど歩いてさすがに「大通りにまったく出ない。これは違う」と気づいて引き返し、なんとか店を発見した。土地勘がないと、こういうことになりやすい。

 気温も暖かかったせいか、歩き回ったら汗ばむほどだった。しかも、疲れると頭痛がしてくる体質なので、どこかで休んで薬でも飲んでおかないと、後がつらいとわかっている。適当な飲食店はないかとまたうろうろと歩き回り、うろ覚えの記憶でまた店を間違えたり、行ってみたはいいものの満席だったり、更に疲れてだんだんとイライラしてきた。

 それまでは安くすまそうと思っていたのに、安直なものでまた「もうここまで来たら、高くてもいいから落ち着ける店でコーヒーと甘いものでも摂取しなきゃ気が済まない!」と欲求が荒ぶってきた。幸いというか、せっかく探してまで行った目当ての店ではとくに買うものがなかったので、その分飲食に回してもいいかとまた自分に都合のいい判断をする。そうなると、これはもう断固とした目的意識になってしまうので仕方がない。

 わたしは通り過ぎただけで「そういやこの店、名前は聞いたことあるけどちょっとお高めの店だったよなぁ」と思った店に戻り、入った。そしてメニューを開くと、「う、予想よりも、ちょっと高い」とは思ったが、それも想定内だったので素直にケーキセットを頼んだのだった。

 高いだけあって、ケーキもコーヒーも美味かった。店の雰囲気もいいが、客席にはそれほど余裕はない。場所がよいからまあこんなものだろうと思ったが、困ったことに、お隣の席から聞こえてくる会話が、あまり質のよいものではなかったのがつらかった。品のよさげな店の、品のよさそうな身なりの客が、品のいい人間だとは限らない。

 せっかく美味しかったケーキやコーヒーの味も、台無しになる気分だった。人間の偏見と狭量さ、想像力と慈悲のなさに悲しくなった。そういうことを言う人間が多いのは知っているし、今の世の中では多数派ですらあるのかもしれないが、それはわたしにとっては失望的な類の考え方だった。

 せっかく贅沢にくつろぎたい気分で入った店でも、こういうことがある。隣席にどういう他人が座っているかは、これはもう運でしかないなと落ち込んだのだった。そして同時に、まあ自分も外での会話には気をつけなければいけないよな、と思った。