後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

本を眺める

 買ったはいいけれど使いこなせていないコンプレックスを克服するために、一太郎を弄ろうと色々調べ始めたら、フォントやら組版やらのことを考えるようになってしまい、手元に古い文庫とか引っ張りだして比較してると、いつの間にか時間が経っていた。よくない。

 今読んでいる本が、なんというか、まさに自分好みの感じなのもよくなかった。最初は「この装丁いいよなー」くらいだったのに。

 わたしはB6サイズが好きだったりする。ハードカバーよりは、ソフトカバーの方が好きだ。天よりは地の方がひろく、小口もゆったりしていると安心できる。柱もページ数も、地にある方がいい。あまりぎゅうぎゅうに字が詰まってるのは、それほど好きではない。

 そんな自分の好みが、わかってきた。

 わからなくても、知らなくても本は読めるし、知らなければ気にならない程度のことかもしれない。だが意識してしまうと、そこから先はこだわらずにはいられなくなる。人間の厄介なところだと思う。

 実際、読み始めて内容さえ面白ければ、それらの条件はそんなに気にしたりはしないし、その条件によって読む読まない、買う買わないを決めたりもしないだろう。あくまで、個人的な感覚の話だ。

 この手の嗜好は、こだわりすぎると排外的なフェチになる。わかる人だけわかればいい、みたいな内輪の感覚に偏りすぎると、ちょっと危ない。だからわたしも、こだわっていい状況と、よくない状況があるということは、常に頭の隅に置いていなければならないと自戒する。

 万人が好む本の形、などというものは存在しないのだろう。その代わり、大多数が許容できるだろうという大まかな基準はある。その基準も、ときによっては変化していく流動的なものであるだろうし。だいたい人間のつくりだす基準にも、絶対はないだろう。

 しかし、現代は本は売れない時代だというし。現実に本屋は消えていったし。物としての本の体裁にこだわること自体、とても狭い世界の感覚になっていくのだろうか。それとも、もう一度どこかで物としての本がひろく求められる時代もくるのだろうか。

 そんなことはわからないし、知ったこっちゃーないのだが、つい考えてしまった。べつにそんな大層な読書家でもないのに。

 数年前だいぶ生きる気力を失っていたときに、もう本なんて読む人生は自分にはないと思い、本棚を処分してしまったので、今はクローゼットと衣装ケースに本を詰め込んで収納しているという有様だ。

 最近はちょっと気力を取り戻してきたので、さすがに不便になってきた。でも、もうこの部屋には本棚を置くスペースもないのである。物理的な本という物質を、お迎えする場所がない。残念すぎる。すまん、本。わたしには、本の有り様がどうこうなどと語る資格は、あんまりないのだ。

 まあ、天から一億円でも降ってきたら、立派な書斎のある家を建ててもいいが、そんなことは起きないのでおとなしく、クローゼット内に積んでる本を収納できるケースくらいは工面できないかな、と悩む日々である。