後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

この部屋には棚が必要だ

 ちょっと内容が濃いめの小説を一気に読んでしまい、疲れた。PCで読んでたから余計にだろうか。長かった。借りてきた本はまだ読んでない。

 今日食べようと思っていたパスタは昨夜身内に食われたので、冷凍のチヂミと唐揚げを食ったのだった。そこで唐揚げの袋等、肉系の保存食品がなぜかせまいチルドの引き出しにぎゅうぎゅうに詰め込まれているのも身内の仕業だと判明して、げんなりした。まあそんなこったろーと思ってたけど。奴は家の中のあちこちを、自分ルールで軒並み使いづらくすることに凝っていて、その浸食を日々拡散しているのでつらい。

 もういい。このことについては考えたくない。気が狂う。

 楽しいことを考えたい。しかし、楽しいことなど何もない。自分で探すしかないのだが、だいたい後からしんどくなる。本を読むのと同じで、義務になってきて疲れるのだ。不思議だ。娯楽のために摂取しているはずのものまで、そこから何も得られないことに鬱々としてしまう。やはり、生産的なことをしないと自尊心は回復しないのだろうか。

 自尊心を回復にはいくつか方法はあるが、その衝動に突き動かされるあまり、間違ったものに依存してしまうことがあるのも知っている。ソシャゲとか、ガチャとか、ネットでの罵り合いとかな。ギャンブルも酒も、対人関係も、過食拒食も、とにかく人はストレスからの回避行動によって依存に陥りやすいらしい。

 人って存外、単純でかつ壊れやすいものよなー、と呆れる。しかしそれが適応力というものなのかもしれないし、依存も一種の適応だったりしたらどうしよう。まあ考えてもしょうがないけど。

 明日は何を食おう。考えるとそれも憂鬱になる。本を読まなくては。部屋の片づけは、片づかない理由が棚がないことにあるのが大半なので、小物をいくら右に左に動かしても定位置が決められるわけはないと諦めかけている。物が問題なのではなく、その物がいつどのように使われるのか、という手順をスムーズにするための配置が不可能であるということにわたしはずっと停滞していたのだと、最近になってやっと気づいた。やっとかよ。この前借りた小説を読んでいる最中に、急に理解した。

 本を読みながら内容に集中できず空回り、しかし刺激を受けて思考の回転だけはよくなっている状態になると、わたしは覚醒したように「あ、わかった」となることがある。つまり、わたしの頭をまともに働かせるには、そうして刺激になるような外部情報を常に入れていなければならない。インプットは大事、というやつだろうか。しかし役に立つのはインプットした内容ではなく、頭を働かせるきっかけになる情報の断片だけなので、インプットはされないんだけど。つらい。回りくどくてめんどくさい。

 しかし棚は買えていない。六年間も悩みつづけて買えてないのだ。買える気がしない。そもそも、どこでどうやって選べばいいのかがわからない。ネットで調べたりすると、情報が多すぎて意思決定がストレスになり気持ち悪くなってくるのだ。

 棚。うん、棚なー。必要なんだけど。