後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

読破できなかったはなし

 わたしは読み始めた本とか小説は、とりあえず最後まで読みきりたい派である。しかし母は、「読んでみて合わない面白くないと思ったら読むのをやめる」派らしい。映画鑑賞にしても、わざわざお金を払っているにもかかわらず、途中でつまらないと思ったら出ていくという人もいるそうだし、なるほど人それぞれだなぁと思う。

 しかし、今日読んでみようとしたネットの小説は、途中で諦めることになった。内容が我慢できないほどつまらなかったわけでも、何か不快な要素があったわけでもない。アマチュアが趣味で書いている作品なので、完成度とか文章力とかいうものもそれほど求めているつもりはなかった。が、読んでいてどうにも集中できない、つらい、という理由を考えてみたら、いわゆる「視点」が多すぎたのかな、と気づいた。

 「視点の混在」問題。知ってはいるが、読み手としてはそれほど気になる要素ではないだろうと思っていた。

 小説技法的な説では、初心者には一人称か三人称一元視点をお勧めされる傾向がある。多元視点とか神視点とかいうやつは書くのも難しいし、海外文学ではよくあるけど、日本ではあまりウケないから――らしい。

 昔好きで読んでいた作家はけっこう神視点使ってたので、今更「禁じ手」とされるのにピンときてなかったのだが、そりゃまあ上手い人が書けばどのようにも書けるというだけで、これから小説を書きたいという初心者にはお勧めはしませんよ、というのはその作家も書いてたので、まあそうなんだろう。

 しかし、それで視点が多少入り交じったり増えたからといって、物語の読解に支障があるほど混乱するものはそれほど見たことがないし、アマチュアが趣味で書いているものにしても、ある程度読み手の高評価を得ている作品なら、読破できないことはないだろう、と思ってたのだが……。

 それがけっこうな長編なのもいくなかった。半分も読まずに、心が折れた。せめてもう少し短かければ読みきれたと思うのだが。

 今、わたしはそういう軽い挫折感を味わっている。読み始めた物語に最後まで付き合えないのは、やはりどこか中途半端で虚しい。しかし、読み切るのにどれほどの時間がかかるか想像すると、悪いがだったらもうちょっと面白いものに時間を割きたいなぁ、と感じてしまった。そうなると、自分を誤魔化してまで読みつづけるというのも欺瞞というか、作品にも失礼な気もするし。

 で、その作品がそれほど長くなってしまったのも、もしかして多視点の多様しすぎなのではないだろうかと考えた。これは作品にケチをつけたいのではなく、自分が読み切れなかったことへ対する分析なのだが。

 視点が増えるということは、作品の情報量が増えるということだ。書き手はその分、書きたいものを作品にぶち込めるが、読んでいる方は順次それを読解して共感したり考えたり想像したりしながら読み進めていくので、疲れるのだ。これは、わたしが色々な原因で集中力が低下していることもあると思う。

 そういえば、視点を切り替えて書くというのは、書き手にも精神的な負担がかかるというようなことを、作家自身が書いていたのを見たことがある。

 細かな視点が多少混乱したところで、読み手のわたしはそれほど気にはしないが、次から次へと視点を切り替えられてしまうのは、けっこう疲れるものなのだなぁ、とひとつ気づいたのが興味深かったのだった。