後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

人形の並べ方

今週のお題「ゲン担ぎ」

 ゲン担ぎ、とくに意識してやっていることはないなと思ったけど、考えてみたらアレがそうかもしれない、ということが一つあった。

 わたしの部屋には、昔の漫画のキャラクターの小さなマスコットが、二体並べて置いてある。フィギュアと呼べるほどの作りではなく、何かのオマケで付いてきたような、二頭身のビニール製のマスコット人形である。

 この人形の置き方には、なぜか自分の中で外してはいけないルールがある。それは、一体の人形は正面を向いて、もう一体の人形は背中を向けて並べる、というものだ。

 最初はこの置き方に、とくに意味はなかった。思いつきというか気まぐれで、ちょっと変わった置き方をしてみただけだった。それが今ではなぜか、この配置を変えてしまったら、自分の運気は今より下がってしまうのではないか、と感じている。

 定期的に埃を拭うたびに、「これ、そろそろ正面を向かせてみるか? いや、でもなんとなく怖い。それで不幸が起きたりしたら怖い。あるわけないと思っても、たまたま何かのタイミングが合っちゃったりしたら、すごく怖い」と考えて、その並べ方を変えられない。

 変えなくても何も困らないし、そのままにしておくことで自分が納得できるのなら、それでいいはずなのだけれど。自分でもずーっと、「いや、我ながら変な考えにとりつかれているよなー、強迫観念ってほどじゃないとは思うんだけど」とは、思っている。

 つまり、人形に対して「これまでと同じ状態」を保つことが、何かの運気を保つことだという、何の根拠もない信心が自分の中に発生していたのである。大袈裟に言えば、このチープなビニールの小さな二体の人形を、自分の守り神として見立てているようなものだ。

 人形というのは古来、呪術的な道具であり、魔除けとして使われてきたものだという知識があるためだろうか。子どもの頃に流行った「髪の伸びる呪いの人形」みたいな怪談話のトラウマが残留しているのか。単に、生物の似姿を粗末に扱うことに背徳感や罪悪感を刺激されるからか。どうも「人や生物の姿を模している」というだけで、その存在は落ち着かないものになる。

 まあ、人間の脳は、壁の染みや雲の形、こぼれた水や、カップの底のコーヒーの粉にまで、具体的な形と意味を認識してしまうのだから、ましてや人形なんて、ただ存在するだけで過剰に意味を見出してしまうのも仕方ないよね、と思うのだった。