後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

読書と記憶

 今日も本を読んだ。昨日の続きだ。

 内容は面白いので、読むことは苦ではない。しかし、面白ければ面白いほど、わたしの思考はあちこちに飛んで落ち着かない。共感したり、自分に似ているところがあると思うと、つい「わかるわかる」だけではすまず、「そういえばあのとき、こんなことがあって、あんなことを思ったんだっけ」などと回想してしまい、ふと本の内容を忘れる。

 その本に収録されている小説は二十年以上も前のものなので、昭和から平成への移り変わりのことなんか書かれている。「あの頃のこと、どれだけ覚えているっけなぁ」などと、本の内容と比較して考えはじめてしまった。主人公が、湿疹の症状に苦しんでいるのもわたしの共感と回想に拍車をかける。社会に上手く適応できていないときに病院に行くときの心細さと、患者として立場の定まった安堵を同時に感じる複雑さとか書かれていると、個人的な記憶をくすぐる。

 しかし作者の書いているものと、わたし個人の記憶は別物だ。部分的な要素が表層的に似ていたとしても、二十年以上のタイムラグがある。それも可笑しい。二十年前にこの小説を読んでいたら、まったく違うこと考えて読んだだろう。別物なのに、読んでいるうちに頭のなかで、書かれていることとわたしの記憶が混ざり合っていく。そして読み終わると、本の内容よりも「あのとき、あの環境、あの状況で、これを読みながらこんなことを考えていたわたし」が残る。

 読書間の回想やら雑念やらは、どこまでも現実の憂さからかけ離れて無責任で、心地よくある。日頃は鬱々としてくるよけいな思考、過去の後悔やしょうもない恨み辛みや感傷も、本という他人の文章に刺激されて引きおこされると、軽くなるときがある。まあ、稀に重くなるときもあるが、それは本との相性というやつだ。

 昨日は本を読むときにBGMは流さないと書いたが、それを書いたせいで反動が生じてきたのか、今日は久しぶりにCDをかけた。といっても、手持ちのCDは去年PCにすべて取り込んだので、そのほとんどは収納ケースにしまいっぱなしであり、ヘビロテ再生に耐えうるお気に入りのみをCDラジカセの側に埃のかぶるまま放置していたので、それをかけた。ついでにCDラジカセ周辺の埃を拭い、掃除機もかけ、すっきりした。

 そんな一時の充足感に自尊心を満たされつつ本を読んでいたが、しばらくして、腹が痛くなってきた。

 この腹痛には慣れている。昼に食ったものがわたしの体に負担をかけたのだ。

 わたしはパンを食べていた。二種類のパンを。一つは、明太子ソースとジャガイモとチーズを合わせたようなやつで、小さいブロッコリーもいくつか乗っていた。もうひとつは、チキンと野菜をバジルソースで和えたピタというやつらしかったが、バジルソースの味はしなかったし、チキンも少量で、中身はほとんどキャベツだった。味が薄かったので、冷蔵庫にあったドレッシングを追加して食べた。

 おそらく、明太子ソースのパンの油がきつかったのだろうなぁ、と考えられるが、しかし野菜のサンドイッチみたいなもので腹を下した経験もあるので、断言はできない。

 意味がわからないほど、わたしは子どもの頃から腹を下していたので、ずっとそれが普通だと思ってきた。大人になってから、わたしはいわゆる『過敏性腸症候群』なのではないかと家族にも言われたが、診断は受けていないのではっきりとはしない。

 しばらく、本を読んでは腹が痛くなってトイレへ行き、また本を読む、という流れをくり返した。ああ、この本を読み終わったあとで思い出すときは、この腹痛の記憶がともに蘇るのだろうなぁ、と考えた。いや、慣れきっているから意外に忘れてしまうかもしれないけど。