後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

主観と読解力について考えていた

 「読解力」とは何だろう、というネタは、気になるので目に入るたびに考えてしまう。最近ようやく、自分なりの仮説のようなものがぼんやりと浮かんできた。まあ仮説なので、与太話のようなものだけど。

 どうして読解力が身につかないのかの説として、「登場人物の『気持ち』を答えさせるような問題を出す国語教育がよくない」というものがあるけれど、わたしはこの説がずっと疑問だった。だって、けっこう解けるからね、文章読んでいれば。

 問題文に「気持ち」と書いてあるとしても、読み解くものは文章そのものであることには変わりない。たまに悪文やあまり上手くない問題はあるかもしれないが、問われているのは、あくまで文章で書いてある内容だ。

 以前ツイッターに、ある国語の問題が話題にされていたのを見たが、はっきりと文章内に「寂しい気持ちになった」と、ほぼ答えが書いてあったのだ。なのになぜか、その問いを間違う人がいて、リプ欄を見てみると、そういう人はだいたい書かれてもいないことを深読みしすぎているのである。

 わたしは思い出した。高校のとき、国語の授業で似たようなことを主張した同級生がいたのだ。その人は、教師に文章の内容として書いてある登場人物の気持ちを問われているのに、なぜか「だって、自分ならこう思う」と、個人的な体験談でもって教師に主張していた。

 わたしは、「えっ? そんなの関係ないじゃん」と思った。それは文章とも作者とも登場人物とも、もはや関係がない。『読んでいる自分の気持ちor考え』である。

 二十年以上も昔の話なのだが、わりとビックリしたのでよく覚えている。教師は一生懸命「いや、そうじゃなくてね……」と説明しようとしていたが、同級生の意見は「だって自分の経験では……」から、まったく動かなかった。

 つまり、読解ができないことは文章を読めないというだけでなく、客観性がないということなのではないか、とそのときに感じたのだ。客観性がないというのはどういうことかというと、主観を疑わない、ということである。

 人間はだいたい主観で物事を認知し、処理している。主観というのは、感情、予想、経験則、期待、願望、価値観、自己正当化、知識の有無、諸々のものを含めた個人差の激しいものだと思う。それを疑い一度白紙に戻す、という姿勢にならないと、客観的になるということはできない。つまり、自意識を意図して切り替える必要がある。

 読解力の研究をしている人が、迷惑メールのような「善良な読者自認の人からの指摘」が届くことにつらい思いをしているというツイッターの呟きを見て「ああ、そういう人、よくいるよね」と思っていたら、ほぼ同時に「スポーツ選手に対して素人ファンが上からのアドバイスを送る」件なども目に入ってきたので、そこからつい考えてしまった。

 なんというか、他人にアドバイスをしたがる人というのは、自分がお節介で余計なことをしているという自覚がないものだ。むしろ良かれと思って、善意だと思って、と主張するだろう。そのような件に対して、よく「想像力がないから人の気持ちがわからない」と評されることがある。

 しかしわたしは最近、「いや、そういう人たちは主観的な想像力が豊富すぎるから、他人の気持ちが想定できないんじゃないかな……」と思ったりするのである。「読解力を身につける」という行為、もはや国語や学校の教育ので解決するものではないかもしれない。