後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

わからないことは、わからない

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 たまにこういう意味のわからないことが起こると、つい不安になって原因を知りたくなるのは、ごく平凡な人間の心理だと思う。

 一応説明すると、本日の当ブログのアクセス数である。今日の十一時頃に限って、なんでこんなに跳ね上がっているのか、理解できないのだ。今まで日に最高35くらいだったのが、その倍である。

 ちなみにアクセス元サイトの比率は、Googleが71%、Yahoo! 検索が18%、はてなブログが7%となっている。少し前まではBing もあったけど、いつの間にか消えた。そしてGoogleからのアクセスの32%、Yahoo! 検索の18%がひとつのページ(読書感想)に集中している。

 総アクセス数が1760なので、その内の約4%が本日のアクセス数ということになるが、反応があったのがどのページなのか、数字を見てもまったくわからんという状態でスッキリしない。たしかに、よく見ると増えているようなページもあるけれど、なぜ今このタイミングに集中したのかが解せない。

 

 まあ正直、考えても無駄だろうとは思う。仮定を導くにしても、わたしの頭で読み解けるヒントが少なすぎる。しかし、こうも極端な数字が出てくると、一瞬動揺する。その意味を知りたくなってしまう。知ったところでどうということはないのだが、起こった現象に対して、「納得したい」という欲求が働く。

 しかし世の中は、だいたいのところ理不尽で不条理で、滅茶苦茶なものだ。因果関係なんて、そう簡単に個人で読み解けたら苦労しない。

 こういうときにいつも思い出すのが、昔深夜のラジオで聴いた話だ。

 たしか、それはある劇場関係者のインタビューで、その人が目撃したエピソードを話していた。かつて繁華街にあったその劇場の前で、どう見ても堅気には思えない人たちのちょっとした騒動があったのだという。何か事件でもあったのかと気になって、その後ニュースや新聞を見ても一向に報道もされず、はたしてあれは何だったのか。たぶん、それを知ることは一生ないのだろう――という、ちょっとした話に、わたしはなぜかとても惹きつけられた。

 ネットも携帯電話もない昔のことだ。人々は今のように、気軽に目の前で起こったことの情報を共有するツールを持たなかった。カメラすら、そう日常的に持ち歩いているものではなかった。

 印象に残ったのは、「目の前で何かが起こっていても、何が起こっているのか見ている人間に理解できるわけではないし、その後もわかる機会があるとも限らない」ということだ。

 憶測や想像で「ああだったんじゃないか、こうだっんじゃないか」と考えて語ることは簡単だけれど、それをせずに「本当は何が起こっていたのか、わたしには一生わからないのだ」と、受け入れるその潔さに、ゴチャゴチャと考えすぎるわたしは感銘を受けたのかもしれない。

 そう、わからないことの意味を考えすぎると、人は結局疑心暗鬼になってしまうことが多い。仮説はいつしか妄想になり、独断になってしまう。だから「わからないことは、わからない」と保留するのは、ときには必要なことなのだろう。