後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

意味のない焦り

 とうとう桜が満開になったとの報が届き、いよいよ無意味な焦燥が強まることとなった。見るべきか、見ざるべきか。そもそも義務ではないのだが。引きこもり気味な生活をしていた時期、親に「桜でも見に行かないのか」と声をかけられれば、「うるせぇぇぇ! 春に、なったからって、誰もが、浮かれ気分で花見を楽しめる心境だとは思うなよ?」と心の中で荒ぶったことを思い出す。しょうもない記憶だが、春になると毎年思い出してしまうのだ。

 花見は好きだし、桜も好きだ。だが、好きだったからこその複雑さというか、愛憎のような感情があった。美しいものを美しいと思い、楽しいことを楽しいと思う。その感情を素直に謳歌できるのは、その余裕がある立場のものだけだ。

 泥水のような精神に浸りきっているとき、その正しさや美しさは、ひたすらに呪わしく自分を苛む。健やかな人々は、美しいもの楽しいものを享受できれば、落ち込んだ精神も癒えるのではないかと発想するらしいが、順番がちがう。ちがうのだな、とは、体感してみないと、なかなか分からないかもしれないが。(実際に説明しても理解された様子はなかった)

 まずは自分が、美しさや楽しさを享受しても罰されない、裁かれない、蔑まれない、責められない状態にならないければ意味がない。誰がそれをするのかというと、自分がするのである。自分自身の理性や羞恥心や客観性や正義感や道徳心といったものが、真っ先に自分自身を攻撃する。

 この攻撃的な自戒は、無意味だと受け入れなければならない。しかし、自罰や卑下が、客観性や成長だと勘違いして歳をとった人間は、なかなか大人の精神になれないのだった。そして同じ論理で他人を責めはじめたりすると、地獄が口を開いて待ってる。

 「家に居ないで、桜でも見に行けば」。たったそれだけのことが、グサグサと突き刺さる精神状態に陥っているのが、今の現実の自分なのだ、と自覚してしまうことすらきつい。そんな時期も、たしかにあったのだ。

 あったので、またいつそんな状態になるとも限らない、とわたしは疑う。だから桜が咲くと「見に行かなければいけない」みたいな、急かされる気持ちになり落ち着かない。何かとても損をするような、失うような不安が湧いてくる。

 昔読んだ小説で、桜の咲く様は節操なしで下品だ、みたいな描き方があって、よく意味がわからないまま「へー」と思った。共感もしないし、理解もしなかったが、なんとなく「春になったからってみんなが桜が好きで喜ぶと思うなよ」みたいなアレかと、安易に捉えた。たぶん、まったくちがう意図で書かれたのだと思うけど。

 その頃の自分はまだ春の憂鬱や焦燥を実感していなかったので、そういうのは「ひねくれてる」とか「天邪鬼」みたいな、今風に言えば「逆張り」みたいに感じてなかったこともない。

 でもそういうのも、必要だと思った。みんなが同じ価値観に一斉に流されているかのように感じるとき(実際にはそれほど単純ではないにしても)、疎外感や劣等感で落ち込むとき、他人に嫌われても見下されても「でも自分はそうは思わないんだけど」と、言える反抗心も、生きていく上ではたまに必要になる。

 しかしこの焦りというのも、一過性の心理状態でしかないので、急にふっと何もなかったかのように消えたりするのだ。そうなると、わたしはもうスッキリと憂いも焦燥も忘れ、浮かれて外出だってしてしまうだろう。ただ、桜はそのときを待ってはくれないというだけで。