後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

パンを食べ損ねた

 急に思い出してしまったのだが、チーズパンを食べ損ねた。

 家族が買ってきた、チーズがかかったプランスパン的なパンだ。そして気がついたら、やはり後で食べようと思っていた、プチあんパンも消えていた。「えー、一個くらいは食べようと思ってたのに。マジかー」とちょっと消沈する。

 家族間で、どうやって食べ物を配分するか。各家庭でルールがあったりなかったりするだろうが、我が家はいつもこのように早い者勝ちルールになっているわけではない。

 個別包装だったり、種類の違うものが複数入っている食べ物の場合には、こんなすれ違いは起きないのだ。わざわざ「これの中で、誰がどれを食べる?」と、きっちり合意形成がなされるというのに、同じ物が複数ある場合は、容赦なく早い者勝ちになってしまう。

 いや、わたしが「食べようと思っていたのになくなっていた」状態になっていたことすら、家族は気づいていないケースもあるのだ。「あれ、食べてなかったの? もう食べたのかと思った」と、返ってくることがある。皆、いちいち自分が食べた数と、家族が食べた数とを計算したりはしないからだ。

 昼食に食べようと思っていた冷凍食品が、身内の夜食として費やされたことも多々ある。とくに誰のものと決めていない、買い置きの食料にはありがちな悲劇だ。残しておいてほしかったのなら、あらかじめそう言っておけばいいのかもしれない。しかし、日常的にいちいちそんな主張をするのも、相手の機嫌を損ないそうで気が引ける。そうなると、目を付けた冷凍食品が翌日まで残っているかどうかは、運任せだ。

 パンの一個や二個を食べられなかったくらいのことで、本気で落ち込んでいるわけでも怒っているわけでもないのだが、家族間の配分が平等ではない、平等になっているかどうかを気にしないというあり方に、わたしは納得できないものを感じているのかもしれない。

 要は、コミュニケーション不信の問題だ。わたしは家族であっても、できるだけ言葉や対話での合意形成というものを重んじたいが、これを煩わしいと受け取られるときがある。「そんなこといちいち決めなくていいじゃない」という空気だ。しかし、決めないからいつの間にか、食べようとしていたパンや冷凍食品が家族に先に食べられてしまうのである。

 しかし、そんなことを気にしているのはどうやら家族の中ではわたし一人らしい。他の家族は食べようとしていたものがなくなっていたとしても、あまり気にしないようなのだ。ある意味、おおらかである。

 自分の方が、食い意地の張った小さい人間なだけなのかもしれないという可能性は、否定できない。