後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

今日の昼食

 いつもいつも昼食に何を食べればよいのかと、しょうもないことで悩んでいるわたしだったが、本日はカップラーメンに冷凍唐揚げをひとつ添えたものだった。

 カップラーメンは、味噌味だった。一応、乾燥したキャベツと、なんか正体のよくわからない赤みのある具材が入っていた。しかし所詮はインスタントなアレなわけで、野菜の分量としては微々たるものだ。

 これが例えば身内の食べ方ならば、冷蔵庫にある野菜を刻んでたんまりと追加するとかいうアレンジを施すのであったが、わたしにはそんな精神的余裕はない。インスタントの恩恵は、調理の必要がなく手間がかからないところにあるというのに、どうしてわざわざ面倒な一手間二手間をかけて、作業と思考と決断する精神力と時間と洗い物を増やさなくてはならないのか。

 それは栄養のためだ。健康のためだ。自分のためなのだ、わかっているけれど。

 腹がへっているときは、とくに気持ちが殺伐とする。とても調理やアレンジを楽しむ気持ちになどなれない。世の中には、料理をすることでストレスを発散するという人たちがいるらしい。羨ましい。わたしは料理そのものは嫌いではないけれど、料理をしなければならないと考えるだけで、猛烈なストレスに襲われ逃げ出したくなる。

 せめてものタンパク源にと冷凍庫から取り出した唐揚げは、家族用でパックにごろっと入っていたものだったのだが、残りが一個しかなかった。本当は二個くらい食べたかったが、まあ仕方ない。それに、やはりインスタントで手軽な食材としての宿命か、実はあまり美味くない。鶏肉のジューシーさもなければ、あまり肉の味もしない。ただ油っこくてもっさりとした衣に、舌先を刺激する唐揚げ的な味が染みこんでいるという食べ物だ。けして不味くはない。しかし、美味であるという嘘はつけない。

 カップラーメンのために沸かした湯は少なめで、分量に少し足りなかった。なにしろヤカンがヤカンだから仕方ない。これはカップ麺に湯を注ぐためにあるようなヤカンではないのだ。はっきり言うと、コーヒーを淹れるためのヤカンである。小ぶりで、水がそれほど入らず、注ぎ口がとても細くて長い。おまけに、蓋についていた木製の取っ手が壊れて取れてしまったので、一度火にかけた後でこの蓋を開け閉めする必要がある場合は、素手ではつかめないので鍋つかみを使わなくてはならない。そして蓋は小さいので、鍋つかみ越しではとてもつかみにくい。

 なので、足りない湯をつぎ足して沸かすという行為が、もう面倒くさいし、なんでウチは新しくヤカンを買わずに、これ一つでヤカンの役割をやりくりしているんだ、改めて考えると非効率すぎてイライラしてくる、と気分がささくれだってくる。

 まあいい。わたしは硬めの麺が好きなんだ。湯は少し少ないくらいがちょうどいい。ヤカンの使い勝手の悪さはどうにかならないだろうかとは思うけど、新しく買えば買ったで、また厄介なトラブルの元になるのではないかという不安が拭いきれない。我が家において「使い慣れない新しいものが共用スペースにやってくる」というのは、常に悪夢の始まりだった。

 カップラーメンに湯を注ぎ、冷凍唐揚げ一個をレンジでチンする。たったそれだけのことに、ここまで鬱々としてしまう自分もしょうもない存在だとは思っている。そしてそれらを食し、空腹を満たし、一息つくとそれらのイライラや憂鬱は和らいでいく。どんなインスタントで粗雑な食事でも、腹が満ちるというのは人間にとってとても大切なこのなのだなぁ、と実感する日々ではある。

 そこに至るまでが面倒なのだが。