後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

いつ捨てるのか

 久しぶりに部屋を掃除した。掃除機をかけただけなのだが、それでもほんの少し自己肯定感は回復する。しかし、ベッドの横にうずたかく積まれている週刊少年ジャンプも、そろそろどうにかしなくてはならない。わたしはこれを、ジャンプタワーと呼んでいる。

 読み終わった雑誌を、どのタイミングで処分するか、基準は人それぞれだと思う。わたしはなかなか捨てられなかった。取り返しの付かないこと、不可逆なことを決断するということが苦手だからだ。

 とはいえ、悩みはするものの、一度決めると色んなものをあっさりバッサリと処分してしまうところもある。ただ、「よし、処分するぞ、片づけるぞ」と実行するまで時間がかかるのだ。

 基本的には、あまり物を溜めておきたくないタイプなのだと思う。子どもの頃はそうでもなかったが、これも大人になってからそうなっていった気がする。部屋がごちゃごちゃと散らかっていると、それで落ち着く人はいいだろうが、わたしはけっこう落ち込む。

 気分が鬱々としているときなどは、死ぬ前に所有物はこの世からすべて処分しておきたい、何も残したくない、と考えたりする。なのに、そういうときは、物を片づけたり処分する気力はまったくなくなるのだから面倒だった。

 そのせいで一時期、自分でも不要だと納得し、処分しようと積んである雑誌を、紐で縛ってまとめるというだけのことが、どうしてもできなかったのだ。雑誌に向かいあうと、なぜかとても気分が悪くなり、落ち込むのである。吐き気までとはいかないが、わけのわからない生理的な不安が湧いてきて、「後回しにしよう」と処分を諦めてしまうということが続いた。

 今はまったくそこまで酷くはないし、「あー、溜まったからそろそろ処分して減らさないとなぁ」くらいの気分で作業ができる。普通はそうなのだろう。

 この「捨てられない」心理というか精神状態は、けっこう厄介なものだということは、ゴミ屋敷問題などによってだいぶ認知されるようになったと思う。しかし、「端から見るとゴミにしか見えないが、当人にとってはゴミではないから捨てられない」という気持ちは、わたしにはわからない。わたしが困っていたのは、「不要だし処分したいけれど、それを本当に処分していいのか不安になって捨てられない」ことだった。

 「捨てる」ということは、やはりひとつの思想であり技術なのではないだろうかと、テレビの片づけ特集を真剣に見ていたのはその頃だ。実際、片づけで著名になった人の方法は、アプローチとしてけっこう役に立っていたりする。上手く実践できてはいないけど。

 わたしの母などは、実に迷いなくものを捨てる。即断即決ができる。わたしはその怖いほどのスピード感に感服したし、憧れた。しかしやはり、熟考と保留が身についてしまった自分からすると、それはそれでどうしても危うく感じてしまうのである。

 そもそも現代人は、これまでの人類の歴史から考えても、所有している物が多すぎるという説があるらしい。なるほど、物を管理するという能力は先天的なものではないだろうし、学習で身につけるしかないだろうけど、どうもそこから上手くいかなかったのかもしれんなぁ、と片づける前にゴチャゴチャ考えてしまうから、わたしの部屋は片づかない。