後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

今週のお題「おかあさん」

 母とはいったい何なのか。概念なのか人なのか。母という人と、その子としてこの世に生を受けたわたしとの、関係性とは本当のところ何なのか。だいたい、わたしは母という人を個人として人間として、どれくらい知って理解しているというのか。微塵も自信がない。

 母は産まれたときからの、わたしという人間の存在を知っているが、わたしは母を母になってからの母としてしか知らないわけで。この差はどうやっても埋まらない。埋める必要もあるのかわからない。

 そうして親の来歴というものに思いを馳せる時期が、多くの人に訪れるのだろう。わたしも昔、本人に話を聞いてみたこともあるのだが、親の主観で語られる、親という存在の来歴は、断片的で間接的で、どうにもイメージしきれないのだった。

 それより田舎に行ったときの祖父母との思い出とか、叔母の部屋に貼ってあった、色褪せたアイドルのポスターだとか、たまの冠婚葬祭の場で親類や多くの他人とどのように接しているか、会話をしているかなどの情報から、自分が知っている以外の親の像というものが、ぼんやりと浮かび上がる。

 人間というものは多面的だ。外から見えるものと、その内心は一致しないこともよくある。わたしは目に見えるものと、個人的な経験や知識を掛け合わせた憶測から、触れられぬものの形を探っていくしかない。しかし、それはとても危うく、主観的な偏見に近いものであることも知っている。

 わたしにとっての母は、とても良識的でまともな、人間として信頼できる人だ。そして同時に、分かりあえない人でもある。わたしは子どもの頃からずっと、「わたしは母のようにはなれない」と思っていた。

 父とのコミュニケーションには絶望しっぱなしだったわたしだが、それでもなんとか我が家で生きてこられたのは、母という存在があったからだろうと思っている。だから母が大病で手術をすることになったとき、万が一があったらどうしようと想像して、自律神経がおかしくなり泣き出したものだった。(当時は父も健康を損なっており、治療のあてもなく病院を流浪する日々だった)

 わたしは、わたしにわたしのような子どもがいたら、とても耐えられない。というか、子どもがいるということにおそらく耐えられない。なのでもう、親という存在になっている人というのが、わたしにはとても遠い存在なのだ。

 感謝というよりは、常に負い目と申し訳なさと劣等感、微妙なところで決定的にわかりあえないという苛立ちやもどかしさが渦巻いている。これはもしかしたら、わたしが子として死ぬまで抱えていくしかない感情なのかもしれない。