後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

運動

 本日は湿気がきつかった。これだよ。これが日本の夏だ。そんな「本番」がやって来た気分である。

 とくに興味もないのに他に見るものもないので、テレビはサッカーを映しっぱなしにしていた。興味はないが、雑談の種にはなるだろうといういやらしい算段があった。しかし雑談程度なら、実際には何も見ていなくても、相手のが一方的に話すのに合わせて「へー、そうなんだー」でも済むことに気づいたのだった。

 苦手意識はあるけれど、運動やスポーツといったものが、嫌いというわけではない。自分の身体を、自分が思ったように動かすことができるというのは、楽しいことだ。絵を描くときに、狙ったところに線がきれいに引けたとき感じるような気持ちよさがある。 

 嫌いなのは、アレである。学校教育で培われた、罰としての運動、集団行動を叩き込まれるための運動、連帯責任をとらされるための運動――。今からふり返ると、「本当に、なんであんな……アレだったんだ」と言葉を濁したくなるほどに、児童に対する不信に満ちたカリキュラムであった。

 学校だけでなく、父親も少しそういうところがあったので、「よかれと思って」半ば強制的な運動体験を課せられた結果、めでたく「お家で一人で本を読みたい」子どもに育っていった。(それで「おまえはどうして余所の子のように溌剌と子どもらしくないんだ」とか言われても困る)

 なぜあの頃の大人たちは、運動を通して子どもに楽しい成功体験を与えようとはしなかったのだろう。クラスの中で悪ふざけした子がいたというだけで、全員が校庭を走らされるとかしていたのだろう。大縄跳びやムカデ競走で、何度も何度もやり直され、クラスのみんなが疑心暗鬼の犯人捜しにギスギスしたあの居たたまれない重い空気は、中年になった今でも忘れられない。

 大人になってからは、なんであんな無意味なことをさせられた挙げ句に自尊心を削られ自己否定に落ち込まされていたのか、あまりに馬鹿馬鹿しいと思えるようになったが、当時は本当につらかった。

 体を動かすことや、スポーツ自体は嫌いじゃない。しかし、それはあくまで楽しかったり、自分のためになっているという実感がなければしょうがない。もう忍耐やら協調性やらのために、体を動かすことを強制されることはしたくない。