後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

あまり意味のない我慢

 台風が来る。そのせいなのか、今日は涼しい。三十度を涼しいと感じる。

 ああ今日は過ごしやすいなぁ、と思うと同時に、なんだか力が抜けてフラフラしてきた。暑さに備えていた体の強張りでも消えたのだろうか。単に体調不良なのだろうか。

 猛暑をふっと抜けて、その合間に過ごしやすい日がやってくると、あまりの体の軽さや心地よさにびっくりする。それまでが、どれだけつらく体に負担があったのかを実感する。こんなの、個人の精神力とかでどうにかなる問題じゃない。

 頭や腹が痛くても、なぜか無断に我慢してしまう、ということがある。薬を飲むのを、躊躇してしまう。薬が効かなかったら怖いし、一日二回しか飲めないものを今飲んでも大丈夫だろうかとか心配してしまうし、薬を飲みすぎて効かなくなったらどうしようとか想像する。その結果先延ばしして、具合が悪くなってからようやく「これで薬を飲んでも許されるはずだ」みたいな精神状態で服薬する。すると、やはりふっと楽になって、「はっ、わたしは今まで何をしていたんだ?」と正気になるのだ。

 つらいときに、つらいことを我慢しなくてはいけないみたいな縛りを、人はいつから身につけるのだろうか。べつに、「ちょっと痛くなってきたら早めに薬飲んでおこう」と薬を飲んだところで、誰も責めはしないのに。

 さすがに大人になってからは、痛みの兆候がある時点で、悪化を防ぐためにも薬は飲むようになったものの、子どものころは、やはりどこかで「できるだけ我慢をしなくては」という思い込みがあった。

 自分でも不思議なのは、べつに薬を飲むことを誰かに咎められたような経験は、まったくないのだ。ただわたし自身が、漠然と、「痛みが酷くないのに薬を飲むのは良くないことなのでは?」と感じていたらしい。

 しかも、明確にそうした思想を持っていたわけでもなく、他人が薬を飲むかどうかはまったく気にもならないし、自分も飲んだら「こんなに楽になるなら、もっと早く飲んでおけばよかった」と毎回思っていた。

 にもかわらず、痛みを感じはじめると「うーん、これくらいならまだ我慢できる」と堪えてしまう体勢に入る。不思議だ。やはりどこかで、「我慢できることは我慢しただけえらい」みたいな刷り込みがあるのだろうか。この世は我慢大会じゃないというのに。

 今は無事にそんな思い込みは捨てているが、「そうした思い込みがあるのでは?」と、自覚を持つまでがけっこう長かったのだ。三つ子の魂百まで、というやつだろうか。とりあえず、百になる前には気づけてよかった。

 だが、たぶん、これからもちょくちょくその手の我慢はしてしまうんだろうなと思う。薬は飲めるようになっても、やはりどこかで、誰かに許されるか許されないかの線引きをされるという意識からは、完全に自由にはなれないような気がしているから。