後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

乾燥しなくても乾燥対策には悩む

 冬は感想が気になる季節とよく言われるが、わたしは乾燥を気にしたことがあまりない。唇はひび割れやすくなるし、放っておくと切れたりするで実感があるが、肌が乾いて粉を吹いたり痒くなったりということは、とくに経験したことがない。

 全体的に、脂っぽいのかなと思う。といっても、まったく乾燥しないわけではなく、困るほど実感していないだけだとは思うが。

 それでも最近は、まあ一応ケアしといた方がいいよなぁと、膝や踵にはクリームを塗ったりしている。以前テレビで、人の足の裏は油分が不足しがちだとか聞いたし。実際、見ると踵の皮膚なんかはひびが入っているし。そういう目に見える変化があると、対処しようという気にはなる。

 乾燥しやすく全身に色々塗りたくらないといけない人は、大変だなと思う。家族でもそれぞれ体質は違うし、人によって必要なスキンケアも異なる。たまにドラッグストアなんかに行くと、なんであんなに大量のスキンケアやらヘアケアやらあるのだろう、と悩んでしまう。わたしの脳は選択や決断のストレスに弱いために、何が良いのかわからず迷って、結局何も買えなくなってしまう。

 それでも、たまーに気力の回復をしたときに、「よし、たまにはいつもと違う商品を試してみよう」と、挑むときもある。まあ、違いがわかるほどの劇的な何かがあるわけではないので、結局は財布と相談して無難なものに行き着くのだが。

 その手の物に対する情報に疎いのもある。店に行って適当に選ぶ。何の指針も知識もない。だから余計に選べないのだろう。だって、そういう情報を調べようにも、やはり多すぎて混乱して疲れるだけなのだから仕方ない。

 世の中は、必要なのかそうでないのかよくわからない選択に溢れている。わたしは化粧水をなんとなく無印で買っていたのだが、最近いつも買っていたものがなくなっていたのでどうしようかと思った。

 それもべつに特に良いと実感したから買いつづけていたわけでもなく、とくに不満がないから同じものを使っていたというだけなのだ。わたしは「しっとりタイプ」というやつを使うと肌がべたつくような感じがして苦手で、ずっと「さっぱりタイプ」と書いてあるものを買っていたのだが、それが消えてしまったのだ。

 まあ仕方ないので別なシリーズの「しっとり」でも「さっぱり」でもないものを買ったのだが、そもそも自分の肌タイプなんてものも謎なので、何がよいのかさっぱりわからん。とりあえず買ってきたそれを今日開封して使ってみて、まあ匂いは好みだからもうコレでいいか、と考えるしかなかった。

昨日のちくわ

 わたしは食べたものを、手帳に記録している。

 ちょうど2015年の元旦から始めたのだけれど、目的は健康管理やダイエットのためではなく、手書きでものを書く習慣を復活させたかったからだった。

 その頃、もう何年も手書きでまともに書きものをしていないんじゃないかなぁと気になっていた。自分の脳みそが、ひどく衰えていると感じていた。ストレスも多かったし、何もやる気が起きなかったし。

 そこでまずは、ともかく毎日何かを記録するということをしてみようと考えた。毎日必ずすることといえば、食事である。食べたものを記録するというのは、健康管理のためにもなりそうだし、「食べたものを思い出して書く」というのは記憶力のためにもよさそうだと思えたのだ。

 最初は、150枚で70円くらいの、B7のメモパッドに、黒のボールペンでただずらずらと列記していくだけのことをしていた。とくに区切りもなく、決まりもなく、ただ書き出す。それだけ。今は見開き二週間の手帳に、色分けして書いているが、初めはとにかくハードルを下げておこうとした。

 そして書いてみてわかってきたのだが、やはりわたしの記憶力は信用できない。

 とくに思い出すのが難しいのが、味噌汁の具だ。つい十分くらい前に食べたばかりだというのに、何が入っていたのかをすぐに忘れる。今では食べるときにいちいち「よし、覚えるぞ」と意識して食べるようにしている。

 その反対に、なぜか詳しく覚えていられるのが、サラダに入っていた野菜だ。不思議である。覚えていられない食材と、覚えている食材の差は何だろう。食べているときの意識の差だろうか。汁物と生ものでは、生ものの方が印象に残りやすいのだろうか。汁物は味が統一されているから、具が記憶に残りにくいのだろうか。そんなことを考えるようになった。

 あと、これは興味があるかないかの差だと思うが、魚の名前がわからない。とくに、アジとかイワシとか、ぱっと見でわからない。サバはまだわかる。食べてもわからないので、家族に質問すると「わからないの?」と驚かれた。うん、わからない。魚、むずかしい……。

 そして食事記録をつけてから、もう三年は経つというのに、未だにちょいちょい一品忘れていたりして、翌日になって冷蔵庫を開けたりしたときに記憶が刺激され「ああー、コレ書き忘れてたー!」となる。

 今日は、昨日の夕飯にちくわを食べていたことを忘れ、そして思い出した。しかもそのちくわ、家に届いて自分で冷蔵庫にしまい、「へー『生ちくわ』だって、へんなのー」とか、思っていたのである。食事のときにもそれを食べながら家族と、「生のちくわって意味わからないよねぇ」などと呑気に会話をしていたというのに、食べ終わってコーヒーなどをいれて、それを飲みながら手帳を開いて記録をつけるときには、すっかり記憶から抜け落ちている。

 なんでだ。我ながら不思議というか、自分の記憶力の不確かさにガッカリしてくる。

 しかしこうして食事記録をつけることによって、手書きでものを書くという行為に対するハードルは下がり、目的は達成したのでよしとするしかない。

指を切って思い出す

 コップを洗っていたら手を滑らせ、割ってしまった。

 このブログを始めてから、一回小鉢を割ったことがあってそれを書いたことがあるが、二度目である。形あるものはいつか壊れる。

 そのコップというのはわたし専用のもので、キリンの『世界のキッチンから』シリーズのペットボトルを二本買うとオマケに貰えるものだった。ドラッグストアの飲料売り場に置いてあり、数種類の柄がある中から好きなものを選べた。シンプルだけどわりとかわいいデザインで、わたしは気に入っていた。

 割ってしまったのは惜しいけれど、あまり残念な気持ちにならなかったのは、それなりに使って柄が剥げてきたり、汚れで曇ってきてたりしていたからだろう。オマケで貰ったものだし、じゅうぶん使った気もするから、さほど未練はなかった。

 しかし、それで指を切ってしまったのはいただけなかった。最初は痛みもなく切れたことにすら気がつかなかったが、血が出ていることに気づいてようやく怪我をしたことを自覚した。右手の中指、薬指側に、二ミリ程度の傷が二ヶ所できていた。ほんとうに些細な傷にしか見えなかったのだが、意外に深く切れたのか、なかなか血が止まらない。さすがに絆創膏を貼っておくことにした。

 指を切るのも久しぶりである。べつに痛みはないし、傷も小さいからすぐに治るだろうとは思うが、よく使う利き手に違和感があるというのはなかなか煩わしいことなのだ、と思い出した。

 そういえば、わたしは子どもの頃から二十年以上慢性的な手荒れというか湿疹に悩まされてきたのに、数年前に家をリフォームしたらぴたりと治ったのだった。以前は、わたしの指はいつも痒くて寝ている間に掻きむしり、血が滲み、水疱ができたり潰れたりの繰り返しで面倒だった。皮膚科に行って薬をもらってもまったく改善せず、医者にも一度、「アレルギーのようだが原因は不明」などと言われ、ステロイド系の強い薬をずっと使っていた。その後べつの医者に行ったらある程度の説明はしてくれ、「基本的に治るものではないが、生活の変化などで良くなることもある」みたいなことを言われて、手荒れとは一生付き合わなければならないものだと思っていた。

 それが急に改善したのは、おそらく、畳やカーペットがなくなりフローリングになったからではないだろうかと今では考える。一度家を出て、別の部屋で暮らしていたときも治らなかったから、これはもう住環境は関係ない体質のせいなのだと思い込んでいたが、思い返してみるとそこも畳の部屋だったのだ。

 あれほど長い間手指の不調に不便な思いをしていたのに、ここ数年はその感覚を忘れてしまっていたのだから、人間の適応力というものは面白いというか現金だなと思う。喉元過ぎれば熱さを忘れるのだ。

 しかし体の不調や不具合は、これから先もなるべく忘れたままの状態でいたいものだ。

運動はつづけたい

 コツコツと運動を続けてきたのに、ここ最近は体重が増えるばかりで嫌になってきた。二年かけて減った腹回りも、すっかり元通りである。意味がわからない。

 体重にしても1、2キロ、腹回りにしても数センチの話なので、誤差といえば誤差のようなものなのであるが、日々の運動がもしかしてまったく何の効果もないただの自己満足的な徒労なのかもしれないと疑念を抱きはじめると、一気にモチベーションというやつが底を突く。

 不条理だ。この世界は不条理で理不尽で残酷だ。

 そう嘆きたくもなるが、もともと負荷が足らないという自覚はあるので、半分本気だが、半分は単なる八つ当たりである。ただでさえ体は中年の坂道を転がり落ちているのに、ちょこちょこ気休め程度の運動をしているくらいで理想の体を手に入れることができると思うのは勘違いというものだ。わかっている。ちゃんと自覚がある。

 だがやはり、何か目に見える成果がないと虚しくなってくるのも事実。手帳に記録をつけるなどして、「自分はこれだけのことはやったのだ」と可視化するようにはしているが、それもあまり効果がなくなってきた。

 だがここで運動をやめるわけにはいかない。習慣化は成功しているので、ここでやめるのが怖いという状態にはなっている。頻度が落ちようが、負荷が足りなかろうが、「何もやらないよりはマシ」なのである。

 わたしは基本的に嫌気のさすようなネガティブ人間であるが、何か自分で自分を褒められるとしたら、自分で設定した目標は達成しようという意欲はわりかし長持ちする、というところではないかと考えている。まあ、あるのは意欲だけなので実際には行動できずに悶々としているだけのことも多く、それは一般的に言うダメ人間なのであるが。それでもひとつの目標を長く持ちつづけていると、あるときふと有益な情報や発想に巡り会い、解決や変化の糸口がみつかることもある。みつからないこともある。

 そういう些細なものをなんとか少しずつ積み上げていくしかない。たとえ無駄だとしても、人はいつか必ず死ぬとしても、その過程で何もしないというわけにはいかないのだもの。

 と、また大袈裟な気負いを自分にいいきかせ、また明日から運動はつづけようと思います。つづくといいな。

今年買ってよかったもの

今週のお題今年買ってよかったもの

 「買ってよかったもの」、実用的で便利であるとか、生活の質が向上したとか、満足度が高かったとか、様々な価値基準があるとは思うが、考えて敢えてここはコレにした。

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 ねんどろいど、勝生勇利フリースケーティングver である。

 である。

 いや、今年といってもつい最近届いたんですけど。でも今年は今年だから。

 かわいい。とにかくかわいいので、見ていて嬉しい。ものの価値なんて、それで十分じゃないかよもう。部屋の片隅に置いておくだけで、「ふふ、かわいい」て思えるんだお得じゃないか。

 このおにぎりとね、笑顔がいいんですよ。先に発売されたショートver は買っていないのだが、この二点で個人的な購入の決定打となった。しかし今度出るという私服ver もかなりかわいいので迷っている。

 実用品や日用品というものは確かに便利だったりするけれど、その効能は結局自分自身の「生活」に依存するので、純然たる「嬉しい・楽しい」からはかけ離れたところに価値がある。それに対して、趣味のホビーというものは実用性皆無であるがゆえに、より直裁にただそのものを必要としているか否か、個人が「嬉しい・楽しい」という感情を想起できるかということにしか価値がない。

 親戚の幼児たちが、トミカウルトラマンに夢中になっているような、世知辛い浮世とはかけ離れた心持ちを取り戻すためには、こうしたホビーが、偶像が必要なのである。

 生活に追われる気分になってくると、実用的なもの以外に金を費やすことに罪悪感が増してくるが、むしろ心の中に一抹の余裕を保つために、こうして趣味のものを購入するというのも大切な気がするのだ。

 まあ、あまり増えても管理も置き場所も大変になってくるので、本当にたまにしか買わないんですけど。

暑さ寒さについて

 明日からは寒くなるらしいと聞いて、それだけでテンション落ちてる。冬が寒いのは当たり前なのに、その現実を受け入れられない自分の弱さが悲しい。

 夏の暑さ、冬の寒さ、一体どちらがましだろう、と懲りもなく幼い頃から同じようなことを季節が巡るたびに考えている。なぜだろうか。結局、考えるのが好きなのかもしれない。考えて何か新しい発想が出てこないかと期待しているのかもしれない。

 「冬は着込めば暖かくなるが、夏は脱げるものを脱いでも涼しくはならないから夏の方が苦手だ」という意見を目にしたことがある。なるほど、一理あるなと思ったものだった。わたしもどちらかと言うと、夏の方が苦手かもしれない。子どもの頃はそうでもなかったが、夏になって大きく体調を崩して苦しんだことがあったからだろうか。以来、なんとなく夏が訪れるのが不安になっている。あと、真夏の屋外でとてもしんどい仕事をしていたことが一時期あったので、その経験からの苦手意識もある。

 暑さも寒さも、行き過ぎれば健康や生命に関わるので、あまり呑気に構えてもいられない。気候の変化は、体調や精神の状態に大きく影響を与えてくるところがつらい。

 冬の寒さがきつくなってくると、霜取り機能でエアコンが止まってしまうのが困る。エアコンは真冬の暖房には向いていないらしいが、今のところ自室の暖房はエアコンに頼っている。その効きが悪くなってくると、防寒のために「着る毛布」を引っ張りだすことになる。

 この「着る毛布」というものはなかなかよくて、寝るときに布団の防寒が物足りないと思ったときにも使える。しかし、足の指先が冷えてしまうことにはあまり効果がなかったりする。

 そこで近年は、寝る前に軽く運動をして血流をよくするという手段をとることにした。本当は寝る前に運動をするのは寝付きのためにはあまりよくないらしいのだが、足が冷えて眠れない方がつらいと実感してからは、寒い夜は体を動かしてから布団に入ることにしている。

 しかし、そうして寝るのは何とかなるが、よりつらいのは起きるときだ。なにしろ自室のエアコンはあまり高機能なものではないので、タイマー機能もない。寝る前に部屋を暖めておくことはできないのだ。そこは我慢するしかない。

 ああ、不安だ。夏の暑さよりは対処の仕様があると思っていても、結局冬の寒さまでもが不安だ。

玉羊羹を食べた

 本日はおやつに「玉羊羹」というものを食べた。土産としてもらったものである。

 要は一口サイズの丸い玉状の羊羹なのだが、風船のようなゴムに入っている。付属の説明によると、爪楊枝で刺したりしてゴムに傷をつけるとツルリと剥ける……そうだが、試してみたらゴムはなかなか弾力があり、なんとか穴は空いたが、爪楊枝は折れた。ゴムはまったく剥ける感じがしなかったので、結局ゴムの口を引っぱり、浮いたところをハサミで切って剥いたのだった。何かコツがあるのだろうか。

 お味はふつうに羊羹です。

 Wikipedia を見てみたら、異名として「切腹羊羹」と呼んだりするらしい? もしかして裂けたゴムを腹に見立ててるのか? はっはっは、悪趣味だな。しかし Wikipedia 情報だから信じるのも危険だ。出典どこよ。

 じゃあ直接、お店のサイトを見てみよう。(なぜそちらを先に見ないのかと自分でも思った)うむ、やはり切腹がどうとかなんてまったく触れていない。そりゃそうだ。

 検索したら、内田百聞の短編に出てきたらしい。あ、そうですか……はい。そこまで確かめるのも面倒なので、この話はもうここで終了しておこう。

 なぜゴムに入れているのかと思ったら、戦地でも兵隊さんが柔らかい羊羹を食えるようにと、長期保存ができるように陸軍から依頼されたとか……へ、へえ。そんな情報知ったら、次に口に入れるときになんか微妙な気分になりそうだ。

 羊羹も色々、背景も色々あるんだな。いや、そうして差異ある物語をつけなくては土産物としても生き残れないのだろうけど。

 ところで最近のわたしは、羊羹などを食べるときは、一緒にミックスナッツを食べるのが気に入っている。ミックスナッツの種類は、だいたいアーモンド、カシューナッツマカダミアナッツ、クルミである。ピーナッツはアレルギー反応が出るようになったので、食えない。羊羹のずしっとした甘みに、ナッツの香ばしさが加わるのが良いと思っているのだが、羊羹そのものを味わえという思想の持ち主には怒られるだろうか。まあいいや。好きに食おう。