後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

鍵が壊れた

 鍵が壊れた。

 母が、なんか玄関で長いことガチャガチャとやっているなぁ、と思ったら、どうやら玄関の鍵が壊れたらしかった。

 そう。我が家は数年前にリフォームをしたのだが、予算の都合で玄関扉は古いままなのだ。どうせなら玄関扉も新しくすればよかったのに、と身内にも言われていたらしいのだが、そこだけで三十万かかると言われて、残すことにしたらしい。

 なので当然、鍵も古い。もともと、開け閉めするたびにちょっとグラグラしているところはあったのだが、母がそのグラグラが気になって弄ったところ、それが裏目に出て完全に壊れてしまったらしい。

 で、何をガチャガチャと玄関で作業をしていたのかと思ったら、鍵を一度取り外して、またつけ直そうとして苦心していたらしい。わたしは詳しく事情も聞かずそれを手伝い、ようやく取り付け直したはいいものの、鍵はまったく使い物にならなかった。

 え? これ、何の作業だったの?

 鍵が壊れてしまったのは内部なので、外側をいくら付けたり外したりしても、まったく意味はなかったのだ。それを言うと、母はようやく鍵屋へと向かった。

 その鍵屋が、新しい鍵の取り付けまでやっているかは分からないというので、わたしにネットで近所の鍵屋を調べておいてくれと言い残して。

 さて、困った。検索すると、地元、あるいは地元にまでサービスを延ばしている鍵屋なんて、山ほどあるのだ。そのどれが業者として妥当なのかなんて、こっちは知りもしない。まったく未知の分野だ。

 とりあえず、ググった結果だけを残して、わたしは他の作業をして帰りを待った。結論から言うと、鍵は新しく取り付けてもらえることになった。その対応は母がしていたので、わたしはその時は関わらなかったのだが、うっすらと聞こえた値段は、ネットで調べた相場の倍以上はしていた。

 しかしわたしは、それが高いのか相応なのか、まったく判断できない。情弱の悲しいところだ。いっそ聞いてしまったことを、忘れたかった。

 とりあえず、鍵は新しくなった。鍵のかからない玄関を放置しておくのは防犯上とてもよくないし、これは必要な処置だったのだ、と思うことにする。

 玄関扉自体は相変わらず古いので、下に隙間は空いているし、音もうるさいのだが、鍵がない扉であるよりはマシだろう。

考えすぎる

 大雨情報を見ていたら、怖くて七夕気分など吹っ飛ぶのであった。

 天災は怖い。人の力では抗いようもない。自然環境というものは、本当に人類に優しくないよね、というようなことを夕食時に雑談した。雑談なので、具体的なことは話さずに、抽象的にスケールを大きくして隙を作るところがポイントだ。

 それ以外には、最近読んだ漫画の話とか、ネットで話題になっていたものの話くらいしかない。時事ネタもあるにはあるが(特大のがあったが)、あまり場が盛り上がる話でもなかった。

 余りものの麻婆豆腐を、余りものの玄米にかけて麻婆丼にして食べながら、夕飯は終わった。

 久しぶりに冷房がいらないほど涼しくなったが、またすぐに暑くなるのだろう。風呂上がりにガリガリ君ソーダ味を食べてしまったが、暑くない日でも、風呂上がりのガリガリ君は美味いのだった。

 そして片づけは相変わらず捗らない。せめて窓際にノートを積んでおくのはやめたいな、と思っているのに、空いているスペースが丁度いいので、いつもそこに積んでしまう。

 思考が邪魔なのだ。そんなことはわかっている。考えすぎるから、実行に移せないのだ。母の即断即決などを見ているといつも羨ましく思うのだが、同時に恐ろしさも感じてしまう。考えずに行動するということは、わたしにとっては、恐怖を克服するという意味と同じだ。失敗の不安や恐怖が前提にあるからこそ、わたしの頭は常に最悪の事態を想像せずにはいられないし、それが自分に制限をかける。

 そんなことはわかっている。

 というわけで、わたしはいつも「うーん、なんとか考えすぎない方法はないだろうか」みたいなことを考え込むというループに陥っていく。考えすぎない。これはとても難しいことだ。

 人間の不幸は、未来予測をしてしまうことだという。「今」「ここ」「自分」だけで認識が完結してくれない。周囲の反応だとか、他人の内心だとか、明日の天気だとか、可能性という可能性を無視できない。そこに、はたして主観以上の根拠があるのかどうかもわからないのに、だ。

 だから大雨のニュースを見ても、「これ以上酷い災害にならなければいいけど……」と、離れた場所のことでも不安になってしまう。それを考えている間に、積んだものの一つでも片づけられる方が合理的なのだろうけど。

掃除くらいしかする気がしない

 ふと我に返ると、「自分、なんで生きてるんだろう……」と考えてしまいそうになるので、よくない。今日は久しぶりに、部屋に掃除機をかけたのだから、いいじゃないか。そうして自分を肯定しようとしても、ふり返るとベッドの上に大量の荷物がある。

 そう。掃除機をかけるのに邪魔だから、床からベッドに移動させた、片づけられない諸々だ。本棚代わりにしている、収納方法を根本的に間違えたクローゼットの奥から引っ張りだしてきた、読みかけの小説十四冊も積まれている。

 はー、これからこれらをまた床の上に積み直すわけですよ、めんどくせ。(自己責任である)

 雨の音が聞こえる。明日も一日雨らしい。たしかに七月の初めは雨が多くて、地元の夏祭りも、七夕も雨の日が多かったなと思い出す。

 急なトラブルだとか、天候だとかによって、細かい予定が狂っていく。たいした予定でもないけれど、一度タイミングを逸すると、二度目に体を動かすのがひどく億劫になるというのはよくあることだ。

 部屋の隅に積んである、ジャンプタワーもいい加減整理しなくてはならない。部屋の中にいても、やれることは色々あるはずなのだ。そう、片づけとか、片づけとか、片づけとか……。ダメだ、ループしていく。

 片づけをするくらいなら、掃除をしていた方がマシだ。そう、だから今日は掃除機をかけた。掃除はいい。片づけよりも、やったことの成果がわかりやすくて、スッキリする。

 わたしは創造には向かない人間なのかもしれない、と思う。

 絵を描いても、文章を書いても、一向に満足感を得られない。だが、掃除機で床に落ちた髪の毛や埃を吸い取り、サッサで机や箪笥の埃を拭ってその汚れを確認する瞬間は、ある種のやり甲斐を感じている。

 しかし掃除なら何でも好きなわけでもないし、昔、年末の大掃除で窓ガラスを拭かされたときはきつかった。なにしろ冬で寒かったし、ガラスは洗剤を吹きかけ、拭いても拭いてもたいして綺麗にならないのだ。そして数日経てば、またすぐに汚れる。

 掃除は、目に見えて「ああ、汚れが消えてきれいになったなぁ」という実感が欲しいものである。

余裕がない

 実は昨日、ある突発的なトラブルがあり、現状ちょっと困っているのだが、とりあえず様子見するしかないという状況で精神的に余裕がない。

 余裕がないが自分にできることもあまりないし、とりあえず読みはじめてしまったので無料公開していた『嘘喰い』をひたすら読んでたのだった。しかし読みはじめるのが遅かったので完読はできず、なんかエア・ポーカーの盛り上がっているところで終わるという、実に中途半端なことになった。

 明日どうなっているかは不安ではあるが、不安になったところで意味がないのもわかっており、それなら不安にならないように娯楽を摂取して気を紛らわせていた方が健康的なのである。

 人間が健康に生きる上で、楽観というやつは欠かせないなと感じるのだが、その機能に支障をきたしてしまったような自分は、色々しんどい。悲観から生じるストレスというやつは、とにかく色々と「削る」のである。息を吸っているだけでも、自分の脳が自傷的な思考に囚われるのをやめてくれないし、そうなると自律神経がヤバくなってくる。このサイクルは最悪だ。

 やはり運動はやめるべきではなかったなんだろうな、と今更思っても、再開の腰は重い。難しいものだ。

 そうしてストレスでしんどい状態になっても飯は食わなきゃいけないのだが、まあ、黙々と食うしかなかった。しかしこの黙々というのも嫌なもので、会話をして気を紛らわせたい気持ちと、この状況下で下手に目の前の人間を刺激したり、あるいはこちらのストレスが更に悪化することを避ける選択したので、とても空気が重い。そんな感じで食った飯は、味がしない。

 自分に余裕がないからそういうことになるのだが、それでも悪化を避けられるのならまだましと考える。

久しぶりに夕食を作る

 本日は久しぶりに、わたしが夕食を作ったのだった。

 とりあえず用意してあった魚をグリルで九分ほど焼き、冷蔵庫にあったもので適当に味噌汁を作り、冷凍のチヂミをレンジでチンしただけだけど。

 自分で食べるだけならいくらでも適当に済ませるが、他人の分まで考慮するとなると、そのストレスは一気に跳ね上がるのが自分でも不思議だ。味噌汁だって、何度も作っているものなのに、久しぶりなので味噌の加減がわからずしょっぱくなり、後から水を足して薄めることになった。

 ちなみに具は、ジャガイモと人参とワカメときざみネギである。

 魚はあらかじめ用意されていたので焼くだけでよかったのだが、自分一人の食事にはまず焼き魚なんて選択肢は用意しないので、意外に困った。実はグリルの使い方とか、よくわかっていねーのである。

 上火と下火があって、それが二つのレバーで操作するのは分かるのだが、その加減が謎だ。さらにタイマー機能があるのだが、この設定の仕方と、適切な時間が謎だ。そこはさすがに事前に質問しておいたのだが、いざ使おうとなると次の機会にはやはり同じように戸惑う自信があった。

 焦げ付かないようにアルミホイルを敷いておくように、というのも言われなければできなかったかもしれない。かろうじてアルミホイルの保管場所は知っていたのだが、なぜか不安定な状態で、キッチンの上の方にある棚に入っていたので、取り出すときに予備のアルミホイルが落ちて、魚の上に直撃したのだった。

 生臭い魚の汁が、予備のアルミホイルにくっついてわたしは悲しくなった。まあ、不慮の事故はそれくらいで、食事はどうにかまともに完成した。

 とりあえず、今日書ける話はそれくらいである。

スースーするシャンプー

 我が家に、新しいシャンプーとコンディショナーがやって来た。やって来たというか、母が試しに買ってみたのだという。何が「試しに」なのかというと、ミントの清涼感で頭がサッパリするタイプの洗髪料なのだという。

 なるほど、夏に髪を洗うのは、暑くて怠い作業だ。そこで少しでも涼しげになるようなシャンプーを使うというのは、悪くない選択だ。実は昔も、一時的にそのようなミントのシャンプーを使っていたことがある。頭皮がいくら清涼感を得たからといって、それで汚れが落ちるわけではないので、洗髪料としてはあくまでオマケの効果ではあるが。

 ちなみにわたしはズボラなので、もう最近はシャンプーしか使っていなかった。どうせくせ毛なので、リンスだのコンディショナーだの凝ったところで無駄、焼け石に水と諦めきっている。

 しかし新しいものがあれば、一応は試してみたくなる。

 洗っている最中は、あまり清涼感は感じなかった。しかし、鼻に抜けるミントの香りで、頭より先に鼻の奥がスースーしてきた。髪を洗っているのに、鼻の通りがよくなってくる。おかしい。

 シャンプーを洗い流すため、シャワーで湯をかぶったとき、ようやく頭皮が涼しさを感じはじめた。

 というか、いや、これ、なんか……自律神経がおかしくなって寒気がしたときのような、不自然な清涼感だな、と正直思った。たしかにスースーする。頭がひんやりする。しかし、あまり心地よいという感じではない。とにかく感覚的に不自然、なのだ。

 ミントと柑橘系の混じった匂いはわりと好みだったが、慣れない違和感に笑い出したくなる。しかもコンディショナーの方は、洋梨の香りだ。

 ちょっと待て、柑橘系の次に洋梨って、そんなに頭に匂いを被せてどうするんだ。柑橘系と洋梨と、最終的にはどっちが勝るんだ。そんな疑問が頭に浮かぶ。

 ここ数年、無香料のシャンプーを黙々と使って髪を洗っていたので、いきなり情報量の増えた洗髪体験が新鮮だった。

 結果としては、なんか色々複雑に混じり合った、ミントでも柑橘系でも洋梨でもない感じの香りが残った。意味がわからない。

 しかし久々にコンディショナーというものを使用したので、いつもより少しは髪のまとまりがよくなったような気もする。気のせいかもしれないけれど。

上半期をふり返って虚しくなる

今週のお題「2018年上半期」

 上半期終了……か。

 今年ももう半分を終えてしまったんだぞと、容赦なく現実を突きつけてくる言葉である。しかし、受け入れねばならない。こりゃたぶんこのまま、いつもの調子で今年も終わるぞ、と。(気が早い)

 とりあえず、六ヶ月をざくっとふり返ってみる。

 

 一月。このときはまだ映画を観に行く気力があった。年末に予約していた、歯医者にも行った。動画サイトで延々とメトロノームをBGMにしていたときは、精神状態が悪かった。

 二月。三月に閉店してしまう店の代わりを求めて、遠出するような気力があった。

 三月。無意味に花見に対してナーバスになっていた。毎年のことなので仕方ない。閉店する店に行こうかどうしようか迷った挙げ句、行かなかった。

 四月。二年間ダラダラやっていただけのグラブルに本腰を入れはじめる。同時に、お絵かきも没入しがちだった。

 五月。行動記録や食事記録、運動といった習慣をやめてしまう。ゲームやお絵かきもそこそこ続けている。あまり外出する気力がなくなっている。

 六月。ゲーム意欲も多少は落ち着いたが、かわりに小説に再燃し一気読みを始めてしまった。お絵かきは、ソフトが固まることが多くなったのでアップデートしたタイミングで描かなくなった。気力はちょっと戻ってきた。

 

 なんて面白くもない六ヶ月だ。書き出してみて、我ながら失望する。

 わかるのは、やはりわたしは自分のコントロールがドヘタクソということだ。すぐに気分や衝動に流されて、制御できない。計画性というものが、まるでない。それでも無気力に日々を暮らしていたために、節約はできたということだけが救いだろうか。

 下半期をどう生きるべきか。せめて部屋の片づけをもう少し進めたい。棚を買いたい。しかし、これは七年くらい同じことを言ってる。では何か欲しいものはないのか。目標は。ない。皆無というわけではないけれど、そこへ至るための具体的な選択が、自分でもうわからなくなっている。

 七月から九月、へたすると十月くらいまでは暑いに決まっている。すると当然、どこかに積極的にでかける気力も失うだろう。やはり上半期と大差ない下半期になりそうな予感濃厚であった。