後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

気休めでも飴を買う

 夕方、ドラッグストアへ買い物に行った。夕方とはいえ、まだまだ暑い。蒸し暑い。運動がてら、徒歩で行った。自転車でもよかったんだけど、最近は散歩をするようになっていたので歩きたい気分だった。歩いて気分転換をしたい。

 見上げるとまだ空は青くて、雲は夏らしい積乱雲だった。おお、夏っぽい雲だ、と思った。暑くなってからはあまり外を出歩かなかったので、夏っぽい雲をまだ見ていなかった。

 道行く人はけっこうマスクをしている。私は外を歩くときは、マスクをしていなかった。ここら辺では人とすれ違っても充分に距離は取れているし、会話もないし。この前ローソンで買ったエコバッグを手に提げて、歩いた。

 店に入るときは、さすがにマスクをする。入り口に置いてある消毒用ジェルの下に、ポピヨンヨードは入荷未定みたいな張り紙があって、なんだか悲しくなった。家に帰って母にそのことを話すと、「ここら辺でも買う人いたの?」と反応した。まあ、そりゃいたんじゃないかな、と私は返した。

 本気で信じていたというよりは、念のためとか、品切れになりそうだからとりあえず確保しておこうとか、転売目的とか、色々あるんじゃないのかな、と。人間の心理はややこしい。それを「愚か」と嘆きたくなる気持ちもわかるけれど、万が一の何かに縋りたくなってしまう無力な人間の気持ちを思うと、あざ笑う気にはなれなかった。

 悲しいし、虚しいけれど。

 ドラッグストアでは、コンタクトレンズの洗浄液と、飴と塩タブレットを買った。飴はGABA入りのミルクティー味で、私が不安恐怖症状に参っていたときに見かけたブログで、GABAが効いたという記事を読んだこともあって、なんとなく買い続けている。味もけっこう好きだし。

 何か効果があるかどうかはわからないけれど、なんとなくこういうものが常時手の届くところにあるというのが大切なのだ。薬は依存や濫用が怖いけれど、まあ飴だし。という気軽さがいい。気休めでもいいのだ。そうして結局、最近はマルチビタミンのサプリにも手を出してしまった。

 運動と栄養。中年の心身の健康を保つためには、もはや必須なのだろう。自律神経、とにかく自律神経が崩れるのが怖い。これから年を取る毎に、どんどん悪化していくのか勘弁してくれ、生きる自信がなくなっていく……。

 そんな感じで、生きるため健康のために足掻くしかない人間からしたら、この感染放置状態で不安になっている人間を追い込むような、クソ情報流した奴は心底罪深いな、と時差で思わずにはいられなかったのだった。

こんな感じ

 気がついたら、前に記事を書いてから50日近く経過していた。マジかよ、おい。いや、「マジかよ」と思ったけれど、そんなもんなのかもしれない。今の私にとってのブログとの距離は。

 で、なんでわざわざ50日ぶりにこうして記事書いているのかというと、メンタルリセットのためである。メンタルがどん底だとブログも書く気はしないけれど、一度ズドンと落ち込んで、そこからちょっと回復してきたからその気分転換に、何かを吐き出したくなってしまったのである。

 何か、といっても具体的なものはない。こうして書きながら気持ちの落ちつきどころを探している。私にとって、文章で何かをアウトプットするというのは、そういうことだ。予め、書くことを考えてものを書くということが殆どない。だから構成とかは考えてないし、本当はブログにとても向いていない人間だな、と気づいて止めていた部分もあった。

 本当に向いていない。言葉にすると、心が更にぐちゃぐちゃになる。自分でも何を考えていたのか曖昧になってしまう。しかしどこかに吐き出さないと、脳が勝手に暴走して、またしんどい状態になって体調も悪化するループなのだ。

 救われない。

 月曜日に家の電気にトラブルがあって、火曜日にはなんとかなった。まあ、それだけのことだったんだけど。今の私はちょっとしたトラブルにもとても弱いので、そのストレスで自律神経がおかしくなったり腹が下ったりするのである。トラブル自体は解決したので、「ああよかったねー」という話でしかないのだけれど、ひとつ起こってしまった不安要因というのは、この現実がとても脆くて危ういということを私に突きつけ、際限のない恐怖と絶望のトリガーになり得るのである。

 だからそんなときに、この国のコロナ対策は最悪だなー、という情報なんか見なきゃよかったのだ。まあでもこのご時世だしね。

 ものすごい矛盾だ。現実を生きるために現実を見ようとするほど、私の心身は耐えられず壊れてしまう。だから現実のことなんてもう一切見てはならないし考えてもいけない。そうしないと、心身は回復しないのだ。心身が回復しないと、食欲はわかないしお腹はずっと下痢になったままだし、動悸がして眠れないし、何を見ても怖くて不安でたまらなくなる。

 数日前までは、わりと調子がよかったのに。落差がすごい。自分で嫌になる。しかしどうしようもないので、諦めて何もせず回復まで待つしかない。

 考えてはいけないのだ。私の考えてしまうことは、まだ起こってもいない先のことなんだから。実際にはどうなるのかわからない。そう思っても、いやでも、このままでは確実に……と、ぐるぐるする。自分の不安は妄想なのか、それともただ冷静で現実的な未来予測なのか、判別がつかない。私はかなり、現実的だと思っているが、それ自体が認知の歪みなのだろうか。いやでも、そうやって否定するこそこそが現実逃避な気もする……。

 こんな感じに、まとまらない。

 一人で考えているからよくないので、他人に話せばいいのかと思ったときもあるけれど、結果からいうとダメだったわけで。そもそも家族とはこういう話はできないし、してもまったく噛み合わないし、身内は情緒不安定になってまた泣いたり喚いたりしかねないし。昔クリニックに一年通ったけれど、まったく何もならなかったし。結局すべては私の脳内に閉じ込められている。

 というわけで、こんなことをぐちゃぐちゃと吐き出しておけるのは、このブログくらいなもんかなぁと久しぶりに書いてみたわけなのだ。

散歩の話

 最近は散歩をするようにしている。散歩。家の近所をただ徒歩で回るというだけのアレだ。何の目的でといえば、運動のためだ。健康のためだ。どれだけの効果があるのかはわからないが、何もやらないよりはましの精神だ。

 私は基本的に出不精な人間である。できることなら部屋でじっとしていたい。しかし、自分の部屋が常に居心地のいい場所であるとは限らないし、動かなければ体は鈍る。メンタルにも悪い。その解消の一環として、室内運動は前々から取り入れていたのだが、最近はそれも億劫になってきて、嫌々ながらなんとかこなしているという調子だ。つまり、モチベーションがだだ下がっている。

 これはよくない。こんな状態がずっと続けば、私のことだ。体を動かすという行為に嫌気がさして、また運動習慣そのものを投げ出してしまいかねない。そう危惧した。実際、そうして二年ほど続けていた運動を一年以上放棄し、案の定体調もメントルも悪くなった。あかん。

 そんなわけで、気分転換に今までやっていなかった「散歩」でもしてみるかと思い立ったわけである。

 幸い、我が家の周辺は散歩をするにそう悪くない土地なのではないかと思っている。いや、散歩に合わない土地があるのか知らんけど。まあ、疲れた顔したみすぼらしい身なりの、髪がぼさぼさの中年がぼへーっと歩き回っても大丈夫そうな、ちょうど良い生活感や寂れ感、公共性のある空間を備えた土地、という意味だ。

 歩き回る時間は、およそ30分から60分。いつもの踏み台昇降運動が20分くらいなので、それを上回るくらいには動いていた方が達成感や自己肯定感に繋がりそう、という算段だ。我ながらいい加減である。距離とか消費カロリーとか、運動負荷とかはまったく考えていない。そんなん知らんから。とにかく、「そういうのが、なんかよさそう」という気分で動いている。虫みたい。

 格好もひどい。普段着というか部屋着そのままで行くぜの方針である。しかし何も考えずに歩いていたら、靴下が次第にずれて靴の中で丸まってきたので、靴下は選ばなければならないなと学習した。また、最初は喉が渇いたらコンビニにでも寄るかな、とポケットに財布などを忍ばせていたが、散歩コースにはそんなんほぼ存在しないということがわかってきたので、それすら消えた。

 しかも飽きっぽいので、なるべくコースは変えていきたい。どうせ近所だし、徒歩でいける距離など決まっているのですぐに選択肢もなくなるだろうが。そんな感じで道を適当に歩いていたら、迷ったような気がしたけれど、実際に進んでみたらそんなに迷ってもいなかった。近所なのに、普段あまり行かない道には土地勘というものが失せる。

 ちょっと住宅街に入ると、よく家を建てている。最近、近所はやたら家が増えている。うちの近くの、30年以上畑だったり駐車場だったりしたところも、新築の家になった。これ以上人口密度が増えるのか、と思うとちょっとげんなりする。

 そんな感じで、散歩もべつに楽しくはないが、自分をどうにか誤魔化してでも運動はしておかなければ不安なのでしょうがない。

レジ袋有料ライフが始まった

 七月一日から、レジ袋が有料になった。

 というわけで、自分もドラッグストアやコンビニにちょっとした買い物に行くのにも、エコバッグ的な買い物袋を持参しなくてはならなくなった。

 いや、持参するのがイヤなら、有料で買えばいいんだけど。買えばいいだけなんだけど、なんとなく「バッグ持参じゃないと」という空気に流されてしまった。

 まあ、実際にレジ袋は部屋に溜まって溢れているんですけど。まだ先月に買い物した分のレジ袋が、部屋の隅に散らかっているという有様なんですけど。ゴミ袋として使うので、畳まないといけないんですけど。めんどくさくてつい、そこら辺に散らかしたまま時が過ぎていくのです。

 そんなわけで、ゴミ袋としてのレジ袋の備蓄はかなり溜まっており、わざわざそれを有料でもらうのもなんだかなー、という気分によって、私はマイ買い物バッグを持って行くことにしたのです。しかし、財布をポケットに突っ込んでふらりとコンビニにでも買い物に行くか、みたいなムーヴができなくなったのには、想像していた以上に縛りプレイな不自由さを感じると気づく。

 だいたい、いつも無計画に店に入っては、フラフラと店内を物色しながら場当たり的に何を買うかを決めていくというのが私の買い物スタイルなのだ。バッグを自分で用意するからには、そのバッグに入る分しか買えないじゃないか、と当たり前のことにテンション下がる。折しもコロナ禍の最中ということで、あまり店に長居するのもどうかなと、以前よりは店内でウロウロとさ迷わなくはなったのだが。

 それにほら、コンビニでたまにチキンを買いたくなるときがある。レジの横にある、あの脂でギトギトのやつ。あれなんか、専用の小袋がないと困る。以前に、週刊少年ジャンプと同じレジ袋に入れて持ち帰ったら、表紙のインクがチキンの脂で溶けていたことがあった。「へー、表紙のインクって、チキンの脂で溶けることがあるんだ……」と、見たままのしょうもない学びを得た。あんな思いはしたくない。衛生的にも困るし。

 どうしよう。揚げ物の袋はどうせ使い捨てだし、割り切って有料でもらうべきだろうか。それとも、部屋に余っているゴミ袋用のレジ袋を消費してしまおうか。しかしそのためには、あらかじめレジ袋を買い物バッグに入れて用意しておかなければならない。

 正直、めんどくせーなー、と思った。心も体も、まだレジ袋有料ライフに適応していないと感じる。たぶん、慣れてしまえばどうってことなくなる行動の選択肢に、いちいち思考のリソースを割かれているのがわずらわしい段階だ。

 『行動変容』という言葉を最近はよく聞くようになったが、実際、人間の生活様式だの思考だの行動だのを根本から変えることは、とても難しくストレスだ。だから本来なら『行動変容』なんて、専用のカウンセリングを受けたりしながら、時間をかけて自分を変えていくことだったはずだ。

 人間、そう簡単に変われない。変われるなら苦労はしない。だからあまり、市民に変わることを簡単に求めてくれるな、と思う。

なんとか一年生きていた

 大変にお久しぶりです。とくに何もありませんが、なんとなく日記を書きます。日々、なんとか生きているなぁという感じです。なんで生きているんだろうなぁとも思います。

 気がついたら新型コロナウイルスとかで世の中大変なことになっているけれど、私は個人的に去年から心身の調子を崩して大変だったので、あの大変さはこのときのための予行練習だったのかとすら思えてきました。

 そう、去年の四月にちょっとしたきっかけで心身の調子を崩して、時折急に強い不安感恐怖感におそわれてどうしようもなくなる、みたいな感じになりました。まあ今は落ち着いています。というか、そうなったのは初めてではなく、実は十六年前くらいにも同じような状態になっていたのでした。そのときに精神科だとかメンタルクリニックだとかに行っておけばよかったのかもしれませんが、私は近所の内科ですませてしまったので、「夏バテ」と診断されてそのまま時間の流れに身を任せてしまいました。その後悔もあって、今度はちゃんと心療内科に行ったわけですよ、予約して一ヶ月くらい待ちましたけど。それが去年の六月で、なんか抗不安薬みたいなのを十錠ばかり処方されておしまい。

 病気というより、なんか「体質」みたいに言われてしまって、「治る」もんではないと言われても困ってしまったけれど。たしかその帰りにスタバに寄って、コーヒーを飲んでいる間にもやっぱり意味の分からない不安と恐怖が湧いてきて、もう一生こんな感じだったらどうしようと思ったけれど、なんとか時間が経つごとにましになりました。

 とはいえ、不安や恐怖を煽るようなきっかけがあると、またその状態に戻ってしまうのが困ったところで。その状態になると、フィクションとか楽しめなくなってしまうんですよ。あまり刺激のない日常もののドラマならなんとか見られたりするけれど、アニメは刺激が強いのかどうも不安恐怖が湧いてダメで。本を読む集中力も、気力も湧かない。とにかく意識があることがつらくて(意識があると不安と恐怖しかないので)、それを刺激しないように何も考えないように、ずーっとパズルゲームとかやってました。

 薬は結局あまり飲まなかったんですよね。効かないと怖いし、効いて無くなるのも怖いし、無くなってからまた予約して病院行くのも怖い。だったら昔のように、また時間が治してくれるのを待つしかないな……と。

 まあそれで、七月頃には多少マシになったけど、ちょっとしたことがきっかけになって、ストレスがすごくて衝動的に出かけて、時間を潰すために映画を観たんですよ。『トイ・ストーリー4』を。これなら不安や恐怖を刺激しないだろうな、と信じて。いやぁいい映画でしたねぇ。観てよかった。でもやっぱり途中で不安感は増した。(これはストーリーとは何も関係なくて、自分の神経が弱っているだけの現象なのですが)

 そして十月頃にはかなりマシになっていたのですが、そこへやってきたのが台風ですよ。台風のせいでまたズドンと悪化しました。「この台風が過ぎ去るまで気絶していたい……この意識があるまま数日間超さないといけないんて耐えられない……」と思いながら、なんとか耐えました。きつかった。ちょうどその頃、近所で工事をしていたのでそこから資材が吹っ飛んできて家が壊れるんじゃないかとか、本気で心配してました。しかし台風は無事に(とりあえず我が家は)過ぎ去ったので、すぐに調子は戻りました。

 そして次のハードルがやってくる。これが一月。Windows7のサポートが終了するので、私の使っているパソコンのOSを、アップグレードしなければならなかったのです。

 これも私にはしんどい作業でした。なにしろ私はとてもデジタルストレスに弱いのです。十六年前に心身の調子を崩した原因のひとつも、パソコンのトラブルにありました。今でもアップデートが必要になるたび、それが終わるのを待っているだけでストレス性の下痢になります。それもなんとか乗り越えました。これは自分で自分を讃えたい偉業です。

 そこで次にやってきたのが、新型コロナウイルスの世界的なパンデミックというわけです。一時期はやばかったですよ。食欲は失せるし、夜は眠れないし、薬も飲んでみたけれど効いたのかそうでないのか分からなかったし。しかしこんな状態で病院には絶対に行きたくないし、と。

 まあ、それもなんとか落ち着いてきました。でもまたなるんだろうな、と思ってる。

 なんとか生きているけれど、首都圏住みの自分にはこれからの第二波がとても不安だし、国も都もまともな体制を整えてくれることも期待できそうにないなーと悲観的になっている日々です。いやだって、感染者は増え続けているのにこれから国内旅行のキャンペーンとかやるの、ふつうに自滅行為じゃないんすかね……舐めプすぎじゃないですかね……。

 そんな感じでまったく落ち着いてはいないけれど、なんとか生きています。ほぼ生きているだけだけど。

色々あったが、棚は買った

 お久しぶりに更新です。

 これまでにも何度か記事を書こうかと思った機会はあったんですが、なんとなく気力が足りないまま諦めてしまいました。

 四月の下旬から大きく心身の調子を崩し、病院の予約をして一ヶ月以上待って、それでも根本的な解決にならず、というかそれは病気ではなくて体質のようなものだから対処療法しかできないと医者に言われ、一応の薬を処方されたものの、殆ど手を付けずに時間が過ぎるのを待つしかなかったという状態でした。

 その間も、調子が良くなってきたかと思ったら悪化しを繰り返し、自分はもう一生この調子なのかとかなり落ち込んでもいましたが、最近なんとかようやくマシになってきたかなという感じです。

 おかげで、こりゃ真面目に運動を再開しなければならないなと決意しました。中年なので、健康のことは真剣に考えないといけません。ただでさえ自堕落で怠惰な、自分に対して甘く、現実認識の適当すぎるわたしですが、健康状態がズトーンと落ち込んだときばかり殊勝に「うう、体力……免疫力……ストレス耐性を上げるための脳内物質……自律神経……」と付け焼き刃な健康知識から「運動、しよ……しなくちゃもう肉体は保たない……」という境地に至りました。

 とはいえ、もともと運動習慣が身についていない、ダルダルに弛みきった心身の持ち主なので、「ま、まあ、自分の生活習慣の中で、自分にできる範囲でね」という感じの、緩い運動しかしていません。以前にも、「大切なのは、続けること」とか言いながら運動を始めたというのに、すぐにその基本マインドを忘れてしまうのだから、わたしという奴は愚かしいです。この歳にもなって、何度も同じような痛い目をみては反省するの繰り返しです。進歩に欠けますね。

 そんな感じで、なんとか生きています。そうそう、ついこの前、部屋を片づけるための念願の棚も買えました。ニトリで、八千円くらいのやつです。自分で組み立てたら、かなり筋肉痛になりました。組み立ててから「そうか、この世には『電動ドライバー』とかいう文明の利器があったのか」と気づきましたが、家具の組み立てなんてそう頻繁に行うことのない我が家なので、そんな便利なものは置いてないのです。

 そして、棚を購入し、組み立て、設置したところで今現在気力が尽きています。部屋が片づくのは、まだまだ先になりそうです。なにしろ、片づけのメソッドというものがまったく身についていない人間なので、そもそもこの棚に何を収納するかなんて考えてはいなかったのです。

 それでも毎日毎日、机とベットへの往復移動をさせていた荷物はとりえずその棚に突っこんでおけるので、それだけでも楽になりました。しかし、片づけはこれからも、多分死ぬまでわたしの頭を悩ませつづけるでしょう。

ブレないボールペンを買った

 なんとかダラダラと生きていたら、とうとう四月も半ばになりました。えらいことです。気がついたら平成が終わるということになっているし。しかし、元号が変わろうが変わらなかろうが、いちいち過去をふり返り反省と悔恨に沈む日々というのは、わたしにとっての日常なので、時代がどうとか考えたくはない。

 ということで、最近買ったペンの話を書きます。ペンの。

 ツイッターで目にした評判にまんまと流されて、『ブレン』というボールペンを買ったんですよ。ボールペンです、ゼブラの。なんか、独特の構造で芯がブレないらしい。その存在を初めて知ったとき、夕食の席でわたしは母に話しました。「芯がブレないから書き心地がいいらしいよ」母は返してきました。「ボールペンの芯ってブレるの?」そこなー。自分もそれは思った! 思ったけれど、わざわざ新しく「ぶれない構造」を売りしてきたということは、従来のボールペンにはぶれる余地があったということになる。我々が気づいていなかっただけで。

 いや、気づいていなかったのなら、それはペンとしての瑕疵とは呼べないのではないか。しかし、ものの進化発展というのは、消費者すら気づいていなかった欠点をつまびらかにし改善を重ねていくことでは?

 最近ではもっぱらゲルインクペンを愛用し、たまに水性ペンを使うくらいに文具熱の下がっていたわたしに、久々に「そんなの使ってみなくちゃわからんやんけー。そうかー、そう思わせて買わせるつもりかー。この商売上手めー。よーしじゃあ乗ってやろうじゃないかー」と思わせてくれたのでした。

 まあ結論をいうと、ボールペンなんですよ。ブレようが、ブレなかろうがボールペンなので、ボールペンを求めていない人にはあまり意味のない品だったかもしれない。遅めの昼飯を食いに行ったマクドナルドで、ちょっとメモをとろうと書きはじめてみて、おそらくはメモを斜めに持っていた体勢も悪かったのだろう、インクはすぐダマになるし紙の上で糸を引くという、いかにも「油性ボールペンだなぁ」というインクであり、わたしはすぐに、いつもの Juice up 0.4 を持ってこなかったことを後悔したし、むしろ今までこうしたメモ書きでどれだけ  Juice up 0.4 というペンに助けられていたかを知ったのでした。

 まあ、そんなこともあるさ。出先のメモには向かなかったというだけで、わたしはまだブレンの本当のポテンシャルを知らないだけなのかもしれないし、わたしのペンの使い方や環境によっては、そのポテンシャルを発揮することも理解することもなく終わるのかもしれない。文具との出会いは、いつもそういうスリルに満ちている。