後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

本をしまう場所

 早朝は、暴風の音が凄かったらしい。いつも耳栓をして寝ているのだが、それでもいつもとは違う音が響いているのに気づき、眠りから覚めてしまったので、そうとう大きな音だったのだろう。しかし、耳栓をしていたおかげで、またすぐに寝てしまい、それが何時頃だったのかは、わからなかった。

 そして三月に入ったからといって、いきなり暖かくなった。これもまた二十年ぶりだかなんだかということで、気候の振り幅というやつはよくわからない。暖かいのは、寒い暑いよりはよっぽどマシでありがたいのだが、今からもう「今年の夏は暑いらしいよ」などという話が出てくると、「うへぇ、暑いのは嫌だよなぁ」と心配になってくる。

 春は短い。その間に、体が動きやすく気力がある間に、できれば色々こなしたい。そう毎年思いながら、なかなか上手くいかないでいる。今日も「よし、暖かいから片づけでも進めるか」と、意気込んだのはいいが、結果は散らばっていたコミックスをそれぞれの収納場所におさめただけで終わった。しかし、何もやらないよりはマシだ。

 何もやらないよりはマシ。頼りになる言葉である。どんな些細なことでも、やればやっただけの充実感を得てよいのだと、中年になってようやく理解できた気がする。ゴミを捨てるとか、洗濯物を畳んでしまうとか、机の埃を拭くとか、コップを洗うとか。そういう些細な雑事にも、「よし、やった」と思っていいのだ。でないと、生きていくのがつらい。

 本棚がないので、とりあえず衣装ケースにコミックスや文庫を詰め込んでいるのだが、引き出すのが、とても重い。そりゃそうだ。衣装ケースは衣類を収納するために作られたもので、本を入れるためにあるのではない。しかし、他に場所がない。ないのだ。物理的に。

 なので、一度しまいこんでしまうと、なかなか読まなくなる。わたしは記憶力があまりよくないし、すぐに内容を忘れてしまう。その程度の頭なのに、なんで漫画や小説、本を買っているのだろうな、と考えると虚しくなるので、考えてはいけない。

 ほとんどのことは忘れても、何かはこの脳みそに残っているはずだ。忘れているというのは思い出せないだけで、脳みそにはちゃんと記憶されているはずなのだ。

 だってそう、鬱になったとき、既に忘れていたはずの過去の悪い記憶が次から次へと噴き出してきて、わたしは本当に驚いたのだ。そして状態が良くなると、その記憶はまたぼんやりとした遠いものへとなっていった。

 だからまあ、わたしが読んできたものも、きっと頭のどこかにはあるはずなんだ。いつ思い出すのかは、わからないけれど。たぶんそれを引き出すために物理的な本が必要なので、なかなか処分できない。そして思いだしたからといって、とくに何か良いことがあるのかというと、これもまあ、考えても仕方のないことである。

二個目のケーキ

 今日も今日とてカフェへの逃避をしてしまった。

 いやしかし、何も考えずにその選択をしたわけではなく、買い物のついでとこの前買った本を読んで思索を深めるため……あ、結局いつものパターンだ。

 行こうと決断するまでは、やたら頭のなかでぐるぐると考えていたのに。三〇分くらい悩んでいたと思う。つまり、目的の買い物をするついでに、飲食をしてしまうパターンを考え、どれが一番安上がりか、浪費があったとしてもなるべく精神的ダメージが少なく満足度が高く、かつ気分転換に有効か。わたしは真剣に考えた。

 そう、いつも、真剣に考えすぎる。なので考えているだけで時間が過ぎている。とても無駄に感じる。しかしそれがわたしの思考パターンなので、抜け出せない。

 そして出した答えは、「月末だし近場で済ませる。しかし、行きたいのでカフェには行く。だがケーキやスイーツは頼まない。ドリンクのみ!」だった。

 そして訪れたいつものカフェは、いつもよりも混んでいて、久々にカウンター席に座ったのだった。カウンター席でも居心地は悪くないので支障はない。わたしは予定通り、アイスカフェラテのみを注文した。しかし、店が忙しかったからなのか、アイスのドリンクなのに氷が入っていなかった。いつものアイスコーヒーにはけっこう氷が入っていたはずなのだが。アイスカフェラテを注文するのは久しぶりすぎて、前に飲んだときは氷が入っていたのかどうだったか、記憶にない。

 ちなみにこの店は、以前におしぼりが汚れていると書いた店なのだが、あれ以降汚れたおしぼりは出てこないので改善したのだろうか。だったら良かった。しかし新たに氷の謎が現れてしまった。その答えは、次にアイスカフェラテを頼む機会にあきらかになる、かもしれない。

 そうして気分良く時間を過ごし、帰ることにして、またわたしの悪い癖が出た。実はそのカフェの近くに、お気に入りのケーキ屋があるのである。いつもはカフェでついケーキセットを注文してしまうのが、今日はそれを我慢したので、我慢した分のケーキ欲がむくむくと湧きだした。

 だって、その店のケーキはカフェチェーンの小さくてショボいケーキよりも、確実に美味い。しかも値段は同じくらいか、それ以下だ。わたしはその誘惑に屈した。バラ風味のマカロンと、ラズベリーのケーキ、美味しゅうございました。

 だが家へ帰り、家族も帰ってきて、思いがけないことが起きた。家族が、土産にケーキを買ってきたのだ。被った。ヤバい。一日に二個もケーキを食べるなんて、さすがに背徳的なカロリーオーバーだ。しかしケーキも生ものなので、早めに食べなくては美味しくない。

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 で、結局食べた。「今日はカフェのケーキは我慢するぞ」と決めたことが、何の節制にもならなかった。せめてもの償いに、わたしは食後、焼け石に水のようなスクワットを追加した。

ゲーム攻略が下手

 もしかして自分はゲーム攻略が下手なんじゃなかろうか、と気づいたのはいつからだったろう。反射神経が必要と思われるアクションやシューティングなどは、最初から苦手意識もあったが、かといってRPGやシミュレーションといった類の攻略も効率的だった試しはないし、考えてみるとアドベンチャー系のやつもわりと無駄な作業に時間を費やしていた気がするのだ。

 昔々その昔は、ゲーム攻略といったら自力が基本で、どうしても行き詰まったときに攻略本というものを買ったのだ。しかし、当時は突貫編集だったのか、値段が高いわりに誤情報が多かった。時代だなぁ。

 他人のプレイスタイルと比較すること自体が少なく、ゲーム友達もそれほどいなかったので、わたしはゲームに対する情報収集や、やりこみ熱というものは薄かった。自分一人で、コツコツダラダラ、マイペースに遊んでいた。それは今でも変わらない。

 しかしネットができて、たまに攻略情報サイトなどを覗くようになってから「あれ……もしかして、自分のプレイ、無駄が多すぎ?」と気づいてしまった。

 とあるゲームなんか、やたらキャラとの交流によるフラグが複雑なのに、攻略本も攻略サイトも頼らずに、ちまちまと遊んでいたので、メインキャラがまったく仲間になってくれず好感度も上がらないまま何十時間もかけてクリアしてしまい、とても寂しいエンディングを見る羽目になった。

 さすがに納得できないものを感じた。それはそのタイトルがたまたまそういうシステムだったというだけなのだが、自分一人で自由に遊ぶことができず、用意されている「正解」を選ばなければ、絶対に満足できるようなエンディングに到達することができないなんて、虚しすぎる。戦闘やレベル上げをもう一度最初からくり返して、そのゲームをやり直す気にはなれなかった。(ノベルゲーム等はエンディングの多様性そのものを楽しむものだし、スキップできるのでいいのだが)

 つまりそこらへんから、ゲームは一人で向き合うものではなく、情報を共有する流れになっているのだと、わたしはようやく理解しはじめた。

 わたしはどうして攻略情報を見たがらなかったのだろう。ネタバレが嫌だったということもあるし、自力でクリアしないとやり甲斐がないと感じていたところもあった。それと同時に、なんか、自分と同じゲームをしている他人の意見やスタイルを目にして、影響されるのが嫌だったのだ。

 性格的な問題だ。わたしは内向的なので、他人の圧というものがとても苦手だ。たとえ善意からであっても、「ああすればいい、こうすればいい」と言われるのも苦手である。(あれこれ口出ししてきて、勝手に不機嫌になるタイプが身近にいたから余計に警戒する)自分の考えや感じたことに、踏み込まれるのが好きではない。なので、なるべく一人で事を済ませたがる。

 それがわたしの欠点であり、色々と物事を非効率に、学びにくくしている元凶なのだろう。と、今日もソシャゲを進め、強化の先の長さに気が遠くなりつつ考えたのだった。まったく、ゲームはいつもわたし自身というものを教えてくれる鏡のようだ。

マクドで読書

 今日はちょっと暖かくなったかと油断して自転車で出かけたら、帰りは寒かった。テレビの気象情報を見たら、「暖かくなったと思ったら、空気はひんやりしてましたね」みたいなことを言っていた。うん、ひんやりしていた。

 買おうかどうしようかずっと迷っていた本を、やっぱり買ってしまった。なにしろ二千円近くする本なので、本屋でみかけるたびにパラパラ捲っては悩んでいた。ページ数も多いし内容も濃そうだし、図書館で借りても意味はなさそうに思えた。それに、たしかこれの前作も売れていて、調べたら予約待ちがけっこうあったから、なかなか借りられない可能性も高い。だったらもう、思い切って買ってしまえと判断したわけである。

 しかし読めるかなー、読み切れるかなー、理解できるかなー、何かに活かせるかなー、と諸々の自信のなさを抱えながら、帰りにマクドナルドに寄り、グランベーコンチーズセットを食った。初グランバーガーである。ふつうに美味しかった。

 行きつけのマクドナルドは、わりと席が多くてのんびりできるので利用しやすい。たぶん、同じことを考えている客層が来るので、店内は長居する人が多いようだ。一時間以上いたのに、わたしより前からいた客たちがほぼ動かなかった。

 勉強している学生もいれば、おしゃべりをしている中高年グループもいる、なんかものすごい荷物を積み重ねている一人客もいる。それなりに賑わっていたが、席にはまだ余裕があり、騒がしいというほどではなく程よい喧噪に溢れている、なかなか理想的な空間だった。

 バーガーを食い、ポテトを摘まみ、ドリンクを啜りながら、買ってきた本を開く。前書きの時点で、なんか文章がくどいと思ったけど、著者自身がそのことは自覚していているとネットに書いてたので、仕方ないのかなと思った。

 自分もブログを書いてみて感じるが、文章の癖というのは、そう簡単に直せない。直さなくてはいけない状況になって、誰かに指導してもらって、何年かかければ良くなるのかもしれないと思う。自分一人で自分のことをやっていくのは、けっこう、いやかなりしんどい。

 しかし家の外に出ると、どうして読書も思考も捗る(ような気がする)のだろう。慣れ親しんだ家というのは、学びの環境としてはそんなに不利なものなのか。不利らしい、勉強法なんかの本によると。だから高校生もわざわざマクドナルドで勉強をしているのか。

 むしろ、「家にいながら勉強が捗る方法」みたいなものが発見されたら助かるのにな。しかし、家という環境も人それぞれだからな。難しいものだな。わたしは家に帰ったら、きっとこの本の続きを読む気力は失われるんだろうな、またゲームやネットに時間を費やして、後悔だらけの毎日の隙間に、なんとか本を読んで行こうとするんだろうな……などと思いながら読んでいたので、実は読書もあまり進まなかった。

 まあ、そんな日もある。

音楽を聴きたいとき

 テレビを付けたら『HANA-BI』をやっていたので、おもわず見てしまった。

 しかし、音楽がいい。聴いているとサントラが欲しくなってきた。

 わたしはサントラが好きだ。サウンドトラックだ。映画やアニメやテレビドラマや特番にゲーム、音楽が気になるとサントラが欲しくなる。サントラは、作業用BGMというやつに打ってつけなのだ。歌が入っていると、どうしても歌詞が思考に残ってしまうし。

 しかし、サントラも安くはないので、欲しくなったからといってホイホイ買えるわけではない。最近は熟考したあげく、年に一枚か二枚買うくらいだ。まあ、自分にとってサントラのよいところは長く聴けるということなので、コストパフォーマンスはよい。二十年くらい平気で聴ける。

 最近は、気になって調べてもサントラが発売されていないということもある。CDが売れない時代だからだろうか。それでも配信されていればマシなのだが。たまに欲しいと思ったアニメのサントラが、Blu-rayやDVDの特典だったりすることもある。世知辛い

 世の中には素晴らしい劇伴がたくさんある。なのに知らずに一生を終えるような音楽も多いのだろうと思うと、とても切ないし勿体ないという気分になる。昔は本とか小説とかに対してもそう思っていたけれど、最近はもっぱら音楽に対して思うようになった。

 本はあれだ。どうせわたしの人生何百年あったところで、理解もできないし覚えてもいられないものが殆どのような気がしてきた。本は自分の精神状態や思考力の調子がよくないと、あまり楽しめない。だが音楽は、逆に落ち込んでいるときや、何もしたくないときにこそ助けてくれる。(それでも鬱になったりすると、好きな音楽を聴く気すら失ってしまうのだが)

 昔聴いていたラジオ番組で、年末の大掃除のBGMには「ワルキューレの騎行」が最適だという投稿があった。たしかにやる気は出そうだが、逆に気が焦って追い込まれないかな、とも思った。しかし、自分にとってやる気の出るBGMが「これ」と決まっているのは便利だな、と思う。

 残念なことに、自分にとってのそのような定番BGMのようなものは、ない。落ち着いた曲が聴きたいときもあれば、テンポのいい曲がいいときもあるし、気分によって求めるものはバラバラだからだ。どんなに好きな曲でも、何時間もヘビロテしていれば、さすがに飽きてきて数ヶ月間を置きたくなることもあるし。

 音楽との付き合いというのも、なかなか安定はしないものだ。

猫の思い出

今週のお題「ねこ」

 猫はかわいい。猫を見るのは好きだ。道を歩いているときに猫がいると、つい足を止めたり、目で追ったりしてしまうくらいには。

 しかし、猫を飼う気にはならない。子どものころはまだ浅はかだったので、衝動的に犬や猫を飼いたい飼いたいと言っていたこともあった。単純に、もふもふして愛らしい無垢な生き物だと思っていた。もちろん、そんな時期は長くは続かない。続かなくてよかった。生き物を飼うということは、とても大変なことだ。わたしには向いていない。

 わたしは猫を飼ったことはないが、友人は飼っていた。そこで猫に触れたこともあるし、泊まると夜にお腹の上に乗っかってくる、その重みと温かさに魅力を感じたことも否定できない。

 だが猫は家のあちこちで爪を研ぐし、毛は抜けるし、トイレのしつけや始末も大変そうだなという現実も見えてきた。餌のことだって考えなくてはならないし、病気になったり怪我をしたりすることもある。当たり前のことなのだが、子どもにはそれらの大変さに実感が伴わない。そりゃ親は反対するな、と後になって理解する。親は正しかった。

 なので、今のわたしにとっては、猫は遠くから眺めるだけの生き物だ。

 父は、とても猫を嫌っていた。猫というか、我が家の敷地内に入ってきて、糞尿をしていく野良猫だが。発情期になると夜中でもうるさく鳴いて、子猫を産んでたこともあったらしい。こういうのは、困る。

 野良猫という存在も、ただ遠くから眺めていればよいだけの存在ではなかった。犬だろうが猫だろうが鳥だろうが、生物すべてを含めて環境というものが存在している。

 昔のことだが、わたしは一時期、暖かい季節になってくると、ノミに刺されることに苦しんでいた。ノミに刺されると、猛烈に痒い。蚊に刺されるのとは比ではない痒みと腫れがしばらく続き、しかも痕がのこる。なぜか、家族のなかでもわたしだけが集中して刺されて、春先になると憂鬱になった。その原因は、家の敷地内に入ってきた野良猫なのである。

 猫に罪はない。とはいえ、招いてもいないのに勝手に入ってきて、ノミというありがたくない置き土産をのこしていく野良猫に対して、恨みがましい気持ちが欠片もないとは言えなかった。なので、車のホイールに猫に小便をひっかけられて、「ぶっ殺してやる」と一時的に激昂した父の心情も汲めなくはない。いや、殺すのはダメだろと思ったし、父も口で言っているだけで、常識的な範囲で猫避けの工夫をしていただけなのだが。

 しばらくわたしは、猫を飼ってもいないのに、猫のノミ対策にについて真剣に思いを馳せていた。カーペットの上にちらりと見えた黒点が、ノミかもしれないと思うと血圧を上げる勢いで殺虫剤を撒き、弱ったところを指先でつまみ、逃さないように気をつけながらセロハンテープに貼り付け、その上から潰して始末した。(その方法は、猫漫画で知っていた)ノミに刺されたことのない家族は、それを冷ややかな目で見ていたのも悲しかった。

 あんな思いはもう懲り懲りだし、やはりわたしは生き物を飼うことはしない方がいい。

無心でポーカー

 グラブルのカジノメダルがあともう少しで二五〇万貯まりそうだったので、がんばってポーカーをやっていた。二五〇万貯まれば、四個目になる召喚石アナトが手に入る。つまり、3凸できる。3凸できれば、個人的にはもうこれ以上カジノメダルのためにがんばる必要はないわけだ。解放される。

 グラブルを始めた序盤からも、カジノメダルはちまちま貯めていたのだが、攻略の勝手がわからないこともあって二年以上かけてようやく達成した。早い人は、わりと始めてすぐにでも入手してしまうらしいので、やはりわたしのゲーム攻略が効率的でないのだろう。

 ポーカーはゲーム内のオマケゲームとしてもメジャーだが、わたしはゲーム内のゲームというものが、あまり好きではない。ゲームに有利なアイテムを入手するために、本筋から外れた作業を長時間必要とすることが多いからである。(クエスト周回は、経験値やアイテムが入るからまだマシに感じる)

 それにカジノという設定も、精神的によろしくない。たとえ実際には一円も失っていないとしても、コツコツと貯めたゲーム内資産が減るのは嬉しくないし、負けが連続するとストレスになる。自分はカジノで遊ぶのには向いていない人間だな、とゲーム内のカジノをプレイするたびに痛感する。

 わたしは「一発当てて大儲けしたい」という欲望よりも、「手持ちの資産を減らしたくない」という保身の気持ちが勝るタイプだ。これは一見、危ない橋は渡らない安全な思考のように思えるが、実はちがう。

 現実には何も失わないはずのゲームでさえ、「これだけ時間を費やして、無駄になるかもしれない作業なんてバカバカしくてやってられない」と思う。それが最終的には「とりあえずマイナスは嫌だから、プラスになるまでは終われない」となり、結果として「負けた分を取り返さないと気が済まない」になる。「損をしたくない」と執着するのは、実のところ「大儲けしたい」という欲と大差はない。

 ゲーム内ポーカーでコインを貯めるには、配られたカードから、ツーペア、スリーカードあたりをこまめに狙い、いけそうならストレート、フラッシュあたりも視野に入れ、成立したらダブルアップで積み上げていくという流れだ。そのため、ダブルアップで失敗すると、それまでの流れが断ち切られたように、気分がヘコんでしまう。

 そこでポーカーをプレイするときは、無音にしてテレビでも見ながら、ひたすら無心でこなしていくのがいいのだと気づいた。最初は、ダブルアップのハイ&ローにすらいちいち真面目に悩んでいたが、それが非効率の元凶だったのだ。

 カードの数字は13、その半分はだいたい6か7、ここらへんが出てくると迷うところだが、そうでなければ機械的に確率の高い方を選び続ける。どうせ二択だ、最後は運だと割り切る。判断ミスだと考えるのが間違っていた。ここで失敗したら惜しいと思ったら、即撤退。未練は残さず、心を殺して再チャレンジ。

 そんな単調な作業を、ただひたすらに続けるのが正解だった。

 そして目標は達成したが、ゲームとは、カジノは何なのだろうかと、ふと考えてしまいそうになった。いやほら、どうやら本邦にもカジノができる流れっぽいですし? 結果、そこでどんな精神のドラマが生じるのだろうかと。

 まあ、お金ないし行く予定もないけど。