ノミとの戦い、再び
その虫刺され痕を発見したときから、なんか嫌な予感はしていた。蚊に刺されたときよりも痒みがはっきりしていたし、同じところを並んで三ヶ所も刺されていた。
わたしは思った。これはアレだ。最悪の場合、ノミの可能性がある――と。
その可能性は、なるべく考えたくはなかった。できることなら、現実として向き合いたくはなかった。だってもう、ここ何年間もわたしはノミに刺されることのない夏を過ごしていて、あれは過去の悪夢、思い出と人生の経験値としてだけ残っていれば充分な記憶だったのだ。
だからこれは、アレに似ているけどきっとべつの虫にたまたま刺されただけのものだ。わたしはそう思おうとした。それか、アレに刺されていたとしても、屋外。屋外で偶然に刺されてしまったのだ。そう思いたかった。
ノミに刺されたときの腫れと痒みは、時間をおいてから酷くなる。羽音をたてて飛び回っては視界に入るような蚊とちがって、その存在になかなか気づけない。もしノミが室内――しかも、家の中のどこにいるのか分からない場合、探そうとしてもそうそう見つかるものではない。小さいし、ぴょんぴょん跳ねるし、家具などの影に潜んでいたら発見しようもない。いっそ、そうして二度と遭遇しないうちに、外に出るなり干からびてくれるなりしてくれればよいと思う。
しかし、わたしは発見してしまったのだった。風呂に入りながら、虫に刺された痕を「うーん、やっぱり腫れて悪化してきている……」と気にしつつ、風呂から上がって部屋に戻ると、まさかと思ったやつがいた。
洗濯して畳んだまま、箪笥にしまわずベッドの上に置きっぱなしにしていた、わたしの白いTシャツの上に、ぴょんと跳ねる黒点を見た。その瞬間ですら、わたしはまだ半信半疑で、確信はなかった。それでも、それが本当にアレだったのなら、ここで取り逃がせば数年前の悪夢が再び、ということになる。その危機感でわたしは動いた。
今、手元には殺虫剤も何もない。目標は、ゴマ粒ほどのサイズの虫一匹。何か道具を取ろうにも、目を離した途端に見失うだろう。こうなったら、素手で挑むしかない。ほとんどヤケクソで、わたしは手を伸ばした。当然、跳ねて逃げられ、見失う。しかし床を見下ろすと、運良くわたしの勘は当たり、ノミはフローリングの上を跳ねていた。
逃すものかと勢いつけて、指先で押しつぶす。しかし小さすぎて、指の先にも手応えがない。それでも周囲に逃げた様子もないので、とりあえず思いっきり指でグリグリする。そう、ノミはなかなか潰れない。
確認のために、そうっと指を離す。はたして、ノミはそこにいた。しかしまだ息の根は止まっていない。まだ跳ねる。
完全に捕らえて処分するためには、セロハンテープが欲しいところだが、それを取りに行くには、ここから移動しなければならない。確実に、指先で摘まんで捕らえておかなくては。
幸い、指で押しつぶしていた試みが効いていたのか、ノミの動きは多少鈍くなったように見えた。しかし、それでもまだ跳ねるのだ。おそるべし、ノミの生命力。これだから嫌なんだノミとの戦いは!
そうして何度かチャレンジし、ようやく指先で摘まみ上げることに成功すると、わたしはようやくセロハンテープを取りに移動できた。あとは慎重に逃がさないように気をつけながら、テープに虫を貼りつける。
正直、「やってやった」と達成感があった。やりたくもない戦いだったが、とりあえずわたしは勝ったのだ。後は、これが室内に侵入した最後の、そして唯一のノミであることを祈るばかりだ。
しかし、我が家にノミが入ったことは何度かあったのに、いつも刺されるのがわたしだけというのは、一体どういうことなのか。わたしはそんなにノミと相性がいいのか。今日運良く発見できたのも、ある意味ノミとの縁を感じてしまい、嫌な気持ちになったのだった。
メニューを眺める
気がついたら今日も、「有意義なことが何もできなかった。やろうとしたことがやれなかった。やってみたことも上手くいかなかった。なんで生きているのかわからない」という虚無感に襲われる。
一日の終わり、寝る前はいつも人生の反省会だ。
実際には、そんな深刻な話ではないのだ。ちょっとしたことが上手くいかなかった。それだけで、ひどく落ち込む。同じことを何回も繰り返して上達がなく、フォローもないから、何もかもが嫌になってくるのだ。
あと何回、わたしは同じことを繰り返すのだろう。それを考えるとゾッとして、やる気を失う。少し休めば、わたしは忘れっぽいので、再チャレンジならいっぱいできるのだ。しかし学習できないので、ずーっと同じところでつまずいて進歩がないと感じている。
見えている壁を突破できない。ただぶち当たり砕けるだけ。そんな感じで。
まあそんな気分になってしまったら、もう何をやっても苦しいだけで上手くはいかない。だから気分転換をして、やり過ごす必要があるのだ。しかし気分が落ち込んでいるときは、発想の転換という機能そのものが死んでいる。つまり、気分転換に「何か楽しいことを」と考えたところで、出てこない。逆さに振ってもスッカスカという状態である。
本当は、そういう気分をやり過ごすためにも、運動というものを利用しようとしていたのに、結局「めんどうくさい」という気分には勝てなかったのだ。ここらへんの思考から自分も、健康な精神は肉体が健康になれば宿ってくれるんじゃないかな、という甘い精神論に毒されていたと見える。
心も体も同じもので、切り離せない。連動している。だから環境を変えてしまう方が色々と手っ取り早いのだが、環境を変えるにはコストがかかる。世知辛い。コストがかかるということは、結局それもまたストレスへ直結するということだ。
というわけで、身動きが取れない。身動きが取れないと、また脳みそが余計なことを考えだしてしんどい。この脳みそを黙らすにはどうすればいいのか。ゲームに逃避する気力もなく、本や漫画すら読む気になれない。だらだらとネットを徘徊してもイライラするだけ。
そんなときは、食い物のことを調べる。身近にあって、明日にでもふらっと行けるような店のメニューを眺めて、その中から何が食べたいか考える。実際には、考えたものを注文することは少ないのだが、それでも「まあいつかの機会に」と思えば、いつもの同じメニューを眺めていても飽きはこない。とりあえず、思考を平和に逸らせればそれでいいのだ。
暑い日の飯に困る
今日も暑かったが、昼に何か食べようと、蒸したキッチンで冷凍庫を開けると、そこに冷凍のオムライスがあったので温めて食べることにした。オムライスの他に冷凍のリゾットもあったが、野菜が皆無どころかタンパク質も入ってなかったので、選ばなかった。
さすがにこの暑い日に、暑い部屋で、熱いオムライスを食う気にはなれず、わたしは冷房をつけた自室でオムライスをもしゃもしゃと食うことにした。部屋でものを食べると、なんとなく臭いが残るのが気になるので、菓子やパンくらいしか食べないことにしているのだが、冷房をつけていたためか、臭いはそれほど気にならなかった。
冷凍オムライスは、卵の他にも肉の欠片のようなものが入っていて、よしこれでタンパク質は摂取できたぞと思い込むことにした。野菜がないが、それはもうあきらめた。暑いキッチンで、なにか野菜を用意することを考えるだけでも面倒くさい。
暑いと、風呂を洗うのも嫌になってくるので、最近は後回しにしている。まあ、風呂は入るまでに洗えばいいのだし、給湯のスイッチを入れるのもわたしの仕事のようなものだし、一番最初に風呂に入るのもわたしだから、あまり気は使わないで済む。
そして暑いと、アイスが美味い。今日も一本食べてしまった。練乳入りの、抹茶氷バー。甘ったるいのでべつに練乳はなくてもいいのだが、とにかくアイスを食べたい気分だったので、余計な糖分を摂取してしまう。
あとはもう、喉が渇いたら水を飲むしかない。氷を多めに入れた、ただの水道水。いくら飲んでも罪悪感や劣等感がわかないことが素晴らしい。熱中症も怖いし、夏は水をどんどん飲んでいこうと思う。
しかし、冷凍オムライスを食ってしまったので、明日は何を食べようか悩む。さすがに熱いリゾットは食いたくない。放置しておけば、そのうち身内が夜食に食べるだろう。たぶん、今日食べた玄米の残りがあるはずだが、それを食べるとなると、結局何かおかずは用意しなくてはならない。
ああ、暑い日はとことん料理したくない。
気軽なパン
本日はコッペパンを食べた。
コッペパン、最近流行っているのだろうか。いつも買っている近所のパン屋も、コッペパンのラインナップを強化してきたのだ。
とりあえず、サバ味噌と海老カツを家族と半分ずつ分けて食べ、おやつにはブルーベリージャムとクリームを挟んだものを食べた。美味しかった。
カロリーの高さは少し気になるところではあるが、サンドイッチにしろハンバーガーにしろコッペパンにしろ、パンに色々とおかずを挟んだものは食べやすい。そのくせ、そういう料理は自分で作ろうとすると意外に面倒くさいのだ。
コンビニでサンドイッチを買うとき、ついミックスサンドばかり選んでしまうのは、具の種類が一番多いからだ。なんか得した気分になる。玉子に、ハム&レタス(たまにチーズも入っている)、ツナ。
どれも素朴な具材に見えるが、家にいるときは自分のために、三種類もサンドイッチを作ったりはしない。他人はどうだか知らないけれど、自分はしない。一種類で済ませることが殆どだ。
とくに具がないけれど、何か腹におさめたいというときは、食パンの上にマヨネーズとトマトケチャップを塗って、仕上げに黒胡椒をふって食べていたときがあった。マヨネーズと醤油もいいのだが、醤油は液体なのでパンにすぐ吸い込んでしまうのでよくない。
甘いものが食べたいときは、バターとハチミツという組み合わせもよいのだが、バターは固くてパンに塗るのが一苦労である。トーストにすればいいのだが、パンが固くなってしまい好みに合わない。マーガリンだと物足りない。ここらへんの加減が面倒になって、結局あまり食べなくなってしまった。
実は、あまりジャムは食べない。嫌いではないのだが、パンに塗ると甘すぎると感じるのだ。我が家はジャムを常備しているが、わたし以外の家族がガンガン使うのですぐに消費してしまう。ジャムはパンよりヨーグルトに入れるのが好きなのだが、ヨーグルトもあまり食べない。なぜなら、ヨーグルトを皿に盛ったスプーンは一度洗って拭いてからでないと、ジャムをすくえないからだ。
そんな些細なことに面倒を感じるかどうかで、わたしは食べるものと食べないものを決めている。怠惰だなぁ、と少しは反省するが、とにかく市販のパンは気軽に食べられてありがたい。
美味しくないジュース
冷蔵庫に珍しく炭酸飲料が入っていると思ったら、「ずんだクリームソーダ」という衝撃的な飲料だった。なんか、母が買ってきたらしい。
母は試しに飲んでみたらしいが、「ダメだった」と感想を洩らした。忠告を受けたにもかかわらず、わたしは好奇心に負けて、一杯だけなら、と口を付けて後悔した。
あー、これは、ダメだ。口に入れた途端、なんともいえない独特の風味が、いわゆるメロンソーダ的な味わいを邪魔する。しかも、「クリーム」? ずんだに、クリーム。いや餡子とクリームは組み合わせとしてアリだし、ずんだ餡とクリームというのも悪くないとは思う。しかし、そこでソーダ? なぜ合わせた。果敢すぎる挑戦。
そんな疑問がグルグルと脳内を巡ったが、コップに注いだ分は飲みきらねばならぬと、自分ルールで飲み干す。初めはわたしも舐めくさって、「まー、言うても、ソーダでしょ? ちょっとした風味さえ通り過ぎれば、あとはソーダとしてふつうに飲めるんじゃないの」などと考えていたのだ。
風味は口内に蓄積されるものだと気づいたとき、わたしは素直に「一杯が限界だ……」と認めた。そして同じコップに水を注ぎ、口直しした。
あー、びっくりした。こんな不味い飲料を口にしたのは、何年ぶりだろうか。
市販の飲料が、それほど不味いと感じることなど滅多にない。好みじゃないと思っても、ペットボトル一本分くらいは飲みきれるものだ。それが、コップ一杯でリタイアというのは、初のことである。
その昔、ゼミ合宿に行った先、どこかの寺にあった自動販売機で、適当に買ったリンゴジュースが美味しくなくてガッカリしたくらいしか、不味い市販のジュースの記憶はない。
リンゴジュースなんて、ジュースとしてはめちゃくちゃ無難でよくある飲み物なのに、それが美味しくないというのは、ある意味わかりやすいチャレンジ商品ではないだけに、印象に残っているのだ。
チャレンジ商品といえば、何年か前、コーヒーの炭酸飲料というやつがあった。わたしはそれを試しに飲んでみて、それほど美味しいとは感じなかったものの、「うん、飲めなくもないな」という感想だった。しかし、それ以後同じものを見たことがないので、やはり不評だったのだろうか。
鍵が壊れた
鍵が壊れた。
母が、なんか玄関で長いことガチャガチャとやっているなぁ、と思ったら、どうやら玄関の鍵が壊れたらしかった。
そう。我が家は数年前にリフォームをしたのだが、予算の都合で玄関扉は古いままなのだ。どうせなら玄関扉も新しくすればよかったのに、と身内にも言われていたらしいのだが、そこだけで三十万かかると言われて、残すことにしたらしい。
なので当然、鍵も古い。もともと、開け閉めするたびにちょっとグラグラしているところはあったのだが、母がそのグラグラが気になって弄ったところ、それが裏目に出て完全に壊れてしまったらしい。
で、何をガチャガチャと玄関で作業をしていたのかと思ったら、鍵を一度取り外して、またつけ直そうとして苦心していたらしい。わたしは詳しく事情も聞かずそれを手伝い、ようやく取り付け直したはいいものの、鍵はまったく使い物にならなかった。
え? これ、何の作業だったの?
鍵が壊れてしまったのは内部なので、外側をいくら付けたり外したりしても、まったく意味はなかったのだ。それを言うと、母はようやく鍵屋へと向かった。
その鍵屋が、新しい鍵の取り付けまでやっているかは分からないというので、わたしにネットで近所の鍵屋を調べておいてくれと言い残して。
さて、困った。検索すると、地元、あるいは地元にまでサービスを延ばしている鍵屋なんて、山ほどあるのだ。そのどれが業者として妥当なのかなんて、こっちは知りもしない。まったく未知の分野だ。
とりあえず、ググった結果だけを残して、わたしは他の作業をして帰りを待った。結論から言うと、鍵は新しく取り付けてもらえることになった。その対応は母がしていたので、わたしはその時は関わらなかったのだが、うっすらと聞こえた値段は、ネットで調べた相場の倍以上はしていた。
しかしわたしは、それが高いのか相応なのか、まったく判断できない。情弱の悲しいところだ。いっそ聞いてしまったことを、忘れたかった。
とりあえず、鍵は新しくなった。鍵のかからない玄関を放置しておくのは防犯上とてもよくないし、これは必要な処置だったのだ、と思うことにする。
玄関扉自体は相変わらず古いので、下に隙間は空いているし、音もうるさいのだが、鍵がない扉であるよりはマシだろう。
考えすぎる
大雨情報を見ていたら、怖くて七夕気分など吹っ飛ぶのであった。
天災は怖い。人の力では抗いようもない。自然環境というものは、本当に人類に優しくないよね、というようなことを夕食時に雑談した。雑談なので、具体的なことは話さずに、抽象的にスケールを大きくして隙を作るところがポイントだ。
それ以外には、最近読んだ漫画の話とか、ネットで話題になっていたものの話くらいしかない。時事ネタもあるにはあるが(特大のがあったが)、あまり場が盛り上がる話でもなかった。
余りものの麻婆豆腐を、余りものの玄米にかけて麻婆丼にして食べながら、夕飯は終わった。
久しぶりに冷房がいらないほど涼しくなったが、またすぐに暑くなるのだろう。風呂上がりにガリガリ君のソーダ味を食べてしまったが、暑くない日でも、風呂上がりのガリガリ君は美味いのだった。
そして片づけは相変わらず捗らない。せめて窓際にノートを積んでおくのはやめたいな、と思っているのに、空いているスペースが丁度いいので、いつもそこに積んでしまう。
思考が邪魔なのだ。そんなことはわかっている。考えすぎるから、実行に移せないのだ。母の即断即決などを見ているといつも羨ましく思うのだが、同時に恐ろしさも感じてしまう。考えずに行動するということは、わたしにとっては、恐怖を克服するという意味と同じだ。失敗の不安や恐怖が前提にあるからこそ、わたしの頭は常に最悪の事態を想像せずにはいられないし、それが自分に制限をかける。
そんなことはわかっている。
というわけで、わたしはいつも「うーん、なんとか考えすぎない方法はないだろうか」みたいなことを考え込むというループに陥っていく。考えすぎない。これはとても難しいことだ。
人間の不幸は、未来予測をしてしまうことだという。「今」「ここ」「自分」だけで認識が完結してくれない。周囲の反応だとか、他人の内心だとか、明日の天気だとか、可能性という可能性を無視できない。そこに、はたして主観以上の根拠があるのかどうかもわからないのに、だ。
だから大雨のニュースを見ても、「これ以上酷い災害にならなければいいけど……」と、離れた場所のことでも不安になってしまう。それを考えている間に、積んだものの一つでも片づけられる方が合理的なのだろうけど。