夏を警戒する
近年、春の温かさ……というより、暑さを警戒するようになったのは、夏場が本当にしんどいからだ。春が暖かすぎると、つい「あー、今年の夏も暑いのかなぁ」と想像して嫌になる。自分も中年といえるほど生きている人間なので、過去の記憶はおぼろげになりつつも、それでもわたしが子どもの頃はここまで暑くはなかった、と思う。
七月の初めに、近所の神社でお祭りがあるのだが、友達や家族と連れだって夕方の道を歩いているときも、家に帰って休むときも、まだ涼しい風があったし、冷房はつけていなかったという記憶があるのだ。
大学生になったとき、エアコンの付いていない部屋にしばらく住んだことがあったのだが、あれはかなりきつかった。だが、当時はまだエアコンがなくてもなんとか夏を過ごせるだろう、という前提があったからこそ、エアコンのない部屋というものがあったのだ。
一応、扇風機は持っていったのだが、これがまた、わたしが産まれる前から家にあったような古いやつで、じっとりとした暑い空気を掻き回すだけで涼しくもなんともなかった。当然、夜は寝付けなかった。
実は、子どもの頃はけっこう長い間、エアコンのない部屋を子ども部屋として使っていた。しかも、二段ベッドの上の段に寝ていた。どういうことかというと、部屋の暖かい空気というのは、上へ溜まるものなのである。とても暑いのである。それでもわたしは、我慢してそこで寝ていたのである。
それでも、さすがに暑すぎて寝られないときは、エアコンのある部屋に移動して寝るようになった。当時はまだ「熱中症」という言葉すら知られていなかった。夏は暑いのは当たり前で、当たり前のことは我慢できるものだ、みたいな考え方が自分の中にもあった。
それが「無理、これは無理だ。とっとと冷房つけて楽になった方がいい」と骨身に染みたのが、その大学時代の寝苦しい夜だった。まあ、これもけっこうな昔の話である。以後、身内が就職し、一人暮らしの部屋を借りるときも、そこにエアコンはなかったのだが、初夏に工事して付けてもらった。
その頃は、もはや家族もみな満場一致で「このクソ暑い夏にエアコンなしの生活なんてありえない」という認識になっていた。そこの現場には付き合ったのだが、かなり暑い日で、工事の人も大変だなと思って持っていたら、暑さで体調が悪くなってしまったので覚えている。
とある仕事をしていたとき、炎天下にトラックの荷台に乗りながら、鉄板の反射する熱や生臭い悪臭、不眠なのに早朝に起きて体を動かすという眠気とだるさに耐えながら作業をしていた記憶も、夏への苦手意識を増強している気がする。体調と精神の状態を著しく崩したのも夏だったし。
だが今のわたしにできることといったら、「部屋のエアコンが真夏に壊れませんように」と祈るくらいのことだった。