後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

とりあえず逃げとけ

 台風が来ているせいか何なのか、今までの息苦しいほどの暑さが緩和されて、うっかり油断しそうになったところへ、天候とはまったく関係のない憂鬱な予定が入り込んできた。

 それを「憂鬱だ」と感じてしまうのも、いかにも自分の人間の出来てなさ、駄目さ加減をあらわしているようで、更に落ち込む。「仕方ないけど正直、嫌だなー」と物事に対して思ってしまうとき、同時に発生する罪悪感が、ただでさえ低い自己肯定感をスパイラル気味に下降させる。ぐるぐるぐるぐる……精神の自己完結不毛ループ。

 「嫌だ、憂鬱だ」と感じる自分を、とても卑小で怯懦な人間に感じるし、それはたぶん事実なのだろうと確信してしまう。人間社会というものは、後ろ向きな人間、不安感の強い人間、自信がなくて自己肯定感の低い人間には生きづらい。

 落ち着いて考えれば、その用件に、わたし自身が負うところは殆どないはずなのだ。しかし、安心していられる環境が揺るがされるかもしれないという事態に、わたしの精神はとても弱い。その可能性を想像しただけで動揺してしまい、自律神経に支障が出る。

 大丈夫。何もない。べつにわたしがすべきことなんてない。ただその時間をやり過ごせばよいだけだ。

 しかし、自分にそう言い聞かせつづけるということは、一人でその不安に向き合い続けるということと同じなので、だいたい逆効果だったりする。不安は更に強まり、精神は不安定になる。自分の脳からは、逃れようがない。

 そういうときは、逃避するしかない。忘れることに全力を傾けるのだ。まあ、あまりにストレスがひどいとそれも不可能なのだが、明日の予定程度のことならなんとか誤魔化せる。

 昔は、その「不安を消すために逃避する」ということが、ひどく悪いことのように思い込んでいた。だから逃げると、いつまで経ってもそのことで自分自身を否定し責めて、そのためにまた精神が不安定になっていたりした。しかも、不安定になっているという自覚すらなかったりした。

 今はもう、自分に苦手なことは、あまり向き合うものではないと思っている。無理は良くない。疲弊して結果、自分を潰すだけだ。

 そんなわけで、明日もなんとか適当に、向き合いすぎずに目を背けてやり過ごしたいものだと思う。

いつかの機会

 あれ、今日はちょっと涼しいな、と温度計を見たら三十三度だった。べつに涼しくはない。ここ最近の暑さが異常すぎただけだった。

 ここ数日は深夜になってもなかなか室温が下がらなかったのに、今日はしっかり冷えて寒いくらいだ。よかった。あまりに効きが悪いので、エアコンが壊れかけているんじゃないかと心配していたのだ。

 おかげで昼食の冷凍パスタも、温めて冷房なしの部屋で食べることができた。一応、マイタケ入りのボロネーゼだったらしいが、肉成分はほとんど感じない上に、マイタケも少量しかない、炭水化物と脂っこいソースがメインといういつものアレだった。そのため、夕食時には力が入らず、食べた後もなんとなく物足りなくて、食パンを一枚追加して食べてしまったら、腹を下した。

 どうして同じ失敗を繰り返してしまうのか。

 冷凍パスタだけだと栄養が偏るから、野菜やタンパク質を加えた方がいいのはわかりきっているけれど、面倒くさい。脂っこい炭水化物は、多めに食べると夕方以降に腹を下しやすい。それでも、昼飯はなるべく手軽に済ませて、手間暇かけたくないという想いが勝る。

 丁寧な暮らしができないな、と思う。

 丁寧な暮らしとは、たぶん、自分自身を大切にする時間の使い方ができる暮らしだ。飯を作る時間とソシャゲで遊ぶ時間を天秤にかけて、ソシャゲで遊ぶ時間を優先させてしまうような大人になってしまった自分には、無理だ。

 ソシャゲをやらなくても、どうせネットをぼーっと見ることに、無駄に時間を費やしてしまう。とくに目的もないのに、目的を探さずにはいられないかのように、同じ所を巡回している。結局、可視範囲すら狭い。

 地元の飲食店チェックなどをして、「まあ、どうせ行かないだろうしなぁ」と思い、たまたま見かけた美味しそうなかき氷情報を見ても、「どうせ遠いから行けないしなぁ」と思う。食欲ではもう、気持ちが奮わない。なのにチェックだけはしてしまう。

 父がかつて、テレビのグルメ情報番組を見ながら激怒していた気持ちが、今では少しわかる。父は「どうせ自分には食べられない」ものを、他人が他人の金で美味そうに食っている姿を見せつけられて、何が面白いのかわからない、と主張していた。

 それを聞いたわたしは、「なんて卑屈な妬み嫉みを、恥ずかしげもなく口にするのか」と、ちょっと引いていた。父が共感されたがっているのはわかっていた。だからわたしは共感しなかった。グルメ情報は、テレビ番組として見ていて楽しい方だったし、わたしは父の共感装置として扱われることにはうんざりしていたからだ。こちらがいくら空気を読んで共感してやっても、向こうはこちらが共感してほしいことは平気で否定するし馬鹿にするだけだと知っていた。

 なので、気持ちは理解するけど共感はしたくないし、「いつか食べる機会もあるかもしれないじゃないか」くらいの楽観は持っておきたいものだと思う。

成型肉を食べる

 去年発売された、マクドナルドのローストビーフバーガーが、実は成型肉だったというニュースが目に入り、わたしはおもわず笑ってしまった。

 わたしもそのバーガーを食べていたからだ。そして「やっぱりそうだろうと思った」と、自分の感覚は正しかったことを確認したみたいな、満足感すらわいてきた。そんな自分をちょっと性格悪いなと思う。

 まあ、表記はちゃんとしてほしい。成型肉を使っているということは、べつに恥じることではない、とわたしは思う。だって、けっこう美味かったし。あの値段で提供されるローストビーフにしては、柔らかくて食べやすかったし。

 そう。ファストフードのメニューに入っているような、安いローストビーフはあまり美味しくない。筋張っていて、乾いてパサパサして、味がしないことが多い。だったら柔らかくて美味い成型肉でいい。

 それほど舌が肥えていないので、腹がへったときに食べられる安い肉料理は、それだけで美味しく感じるものだ。当たり外れがあっても、ついコンビニで昼食を買うときに、チキンを買い足してしまうように。 

 あれだって、それほど美味いと思って食べているわけではないが、値段や手軽さで満足している。だからリピートする。高級肉では、こうはいかない。ある程度の、覚悟が必要になる。金はかかるし、その分の期待感も膨らみすぎる。そして実際に美味かったとしても、悲しいかな、次の機会はなかなかないという現実に直面するだろう。

 昔、仕事で疲れた体で、コンビニで選んだやたら味の濃い「ステーキ肉風弁当」も、成型肉だった。くたびれた体で、コンビニ内にある飲食スペースで丸まるようにして食べたあの弁当は、とても美味かった。

「おもしろいなー、コレ。外見はステーキ肉っぽいのに、食べるとハンバーグの味がする」と、思いながら噛みしめた。

 わたしは記憶力は弱いのに、そういうことはなぜか覚えている。

 もちろん、ちゃんとした美味い肉だって食いたいとは思う。そういうのがお安く提供されれば、嬉しいだろう。でもローストビーフはな、ある程度高くないと美味かった例しがないからな。

イメージを文章化したい

 ツイッターを見ていたら、イラストを描く人あるある的な「脳内イメージに画力がついていけない」というネタイラストに、「わかるー」と思いつつ同時に「いやでも、文章よりは絵の方がまだ脳内イメージを表現しやすいんだよな」と、考えてしまった。

 イラストを描くとき、最終的には「脳内イメージを再現する」ことができれば理想的ではあるが、そこまで至らなくても「脳内イメージをできるだけ具体化する」だけならば、下手でもラフでも、ある程度形にはできるものなのである、絵というやつは。問題は、それを他人が見てもイメージを共有できないということくらいで。

 たとえイメージ通りに描けなかった(画力が足りなかった)としても、一度絵という形でアウトプットできれば、そのイメージは自分の中に残り続ける。どれだけ下手な出来でも、描いた自分が後から見直せば、そのときの自分がどういうものを描きたかったのかは、だいたい思い出せるのである。

 しかし、文章では同じことはなかなかできない。そこにいつも悩んでいる。

 「なんとなく、こういう感じのものが書きたい」というイメージが頭にあっても、それを具体的に、どのような文章で残しておけば、後からでも自分の脳内イメージが再現できるのかが、わからない。

 もやっとした、ぼんやりとした、抽象的な「イメージ」を的確に言語化するということは、難しい。絵を描くのとはまったく違う能力が必要になるのだな、と感じる。

 どんなにイメージやらアイデアのようなものを文として書きとどめておこうとメモを残しておいたりしても、後から自分で見て、思い出せない。そういうことが何度もあると、落ち込む。

 具体的な事実や詳細を文章にするというのは、まだやりやすい。だが、まだはっきりと形になっていないもの、イメージの抽出というやつは、文章で表現をしようとすると、とてもとても難易度が高いと感じる。

 まったく不可能、というわけではない。たまになら、自分でも的確に表現できて、文章化できたぞと思えるときもある。けれどそれは、たまたま運良く、調子がよかったからそれができたという感覚でしかない。絵も感覚的なところはあるが、それでも「髪型はイメージ通り描けたな」とか「服の皺がいまいちだな」とか、出来不出来のチェックポイントが、文章表現よりはわかりやすい。

 べつに上手い文章を書きたいと望んでいるわけではない。ぼんやりとした自分のイメージを、自分で忘れることのないように文章化する技術というのは、一体どういうものなのだろう、と、つい考えてしまっただけなのだ。当然、答えはわからない。

設定温度は大事

 ここ数日、本当に「暑い」以外のネタがない。「暑い」という感覚と感情が生活を支配している。深夜二時を過ぎて、ようやく室温が二十七度になるのを確認する。氷水を飲んでいるけれど、水道水を凍らせた氷は、味がまずい。冷蔵庫にはアクエリアスがあったけど、ガブガブ飲んでいるとすぐになくなってしまう。

 今日も熱気の充満した台所で料理する気力はなく、なんとか冷凍庫から、冷凍のピザロール的なものを発見して、それを昼食とした。さすがにそれだけでは足りない気もしたので、手軽に腹を満たせそうなバームクーヘンも追加する。一応、野菜成分も摂取しなくてはとトマトジュースも一杯付けて。

 家族が帰ってきて、ようやくリビングの冷房を付ける。扇風機も同時に回しているというのに、異様に蒸し暑い。おかしい、こっちのエアコンはわたしの部屋エアコンなどよりずっと新しく、性能もいいはずなのに……と思ったら単純なことで、そもそもの設定温度が高めだったのだ。

 母曰く「面倒くさくてそのままだった」わたしはガックリとした。この連日の猛暑、暑いと思ったら、ふつう設定温度を下げないのか? と。わざわざ扇風機まで持ってきて、温風を掻き回してこの数日「暑い、暑い」とやっていたのか、と。

 わたしは飯を食うだけであまりリビングに長居をしないので、エアコンの温度管理にはまったく手を付けていなかったのだ。

 設定温度を二十八度にしたとても、べつに室温は二十八度にはならない。まして、長時間蒸されて熱気がこもっていた状態だ。体感的には三十度を超えていた。おまけにそこから続く台所は仕切りがあって、空気の循環が悪く、料理をするときは火を使うものだから、よけいに部屋の温度は高くなるのだ。

 我が家は、なんかいつもこうだ。要領が悪い。効率的でない。「面倒くさい」とか「うっかり忘れていた」とか「いつもと違うことはやりたくない」とか「なんとなくそう思い込んでいた」みたいな感じで、不具合が出る。悲しい。

 だが日常は、だいたいそんなことの繰り返しだ。器用になんてこなせない。だいたいいつも無駄なことをして、神経をすり減らして生きている。そこからちょっとだけ学んで経験値を得て、そして時間が経つと忘れてしまって、また同じ失敗をするのだ。 

暑さに思い出す憂鬱

 気がついたら七月も終盤だった。最近の猛暑で感覚が麻痺していたけれど、まだ七月だった。夏はこれからだ。

 なんとなくツイッターを眺めていると、学校のエアコン問題が色々と目に入ってくる。ちなみにわたしは、小中高と、冷房のない教室で過ごした。昔はそれでもなんとか過ごせたものだったが、当時の感覚からしたら、日中三十六度とかなかなかあり得ない数字ではあった。

 だから大学へ行くと、教室にふつうにエアコンがあるのには感動したし、あるときなどは設定温度が低すぎて、寒さに震えながら講義を受けていたこともあった。あれはみんな平気だったんだろうか、それともわたしと同じように我慢していただけだったのだろうか。今となってはわからない。

 そう、場所によっては冷房が効きすぎて、体に負担がかかることもある。昔は、夏場のスーパーマーケットなどに入ると、とくに生鮮食品売り場近くは、寒くて長時間いられないということもあった。

 わたしの部屋のエアコンは、古いせいもあるのか、あまり効きがよくない。温度計を見てみても、日中は二十七度から二十九度くらいである。それでも、部屋の外に出るとむわっとした暑さに「無理」となるので、エアコンは大事である。エアコンのない部屋の、窓際の温度計なんて、三十九度になっていた。

 夜中になると、さすがに二十五度程度には下がる。それくらい下がれば、充分に涼しく感じられる。深夜になって、ようやく生き返った心地になる。

 そして未だに、ふと考えてしまうのだ。ある時期までわたしがやっていた仕事、真夏の炎天下に長袖の作業服を着て、トラックの荷台の鉄板から反射する熱と、収拾物の悪臭に耐えながら作業していたアレを、今でも誰かはやっているのだということを。

 わたしがその作業を始めたとき、負担はそこまで酷くなかった。だが、年々現場の負担は増えていくことになったのだ。負担を負わなければ、仕事そのものがもらえないから。しわ寄せはすべて、現場の過酷さに反映された。

 その根本的な構造が変わっていない限り、やはりどこかで誰かがその役割を担うのだろう。

 それを思うと憂鬱になるし、今の自分はたまたまそういう現場から離れただけで、またそこに戻ることもあるかもしれないし、いや、それよりもっと過酷になっていくのかもしれないとも考えたりしている。

夢の街

 久々に記憶に残る夢を見た。

 わたしは外に出かけていた。家からあまり遠くないところだ。ちょっと大きな道をまっすぐに南の方角に進んでいくと、そこにはわたしの見知らぬ街があった。街は栄えていて、色々な施設やお店が並んでいた。とても華やかだ。

 「自分の生活圏内に、こんな楽しそうな場所があったなんて知らなかった」と、わたしは夢の中で得をしたような気分になった。それまで、靴もなく裸足で路上を歩き続けていたことも忘れて。

 その見知らぬ街で、わたしはちょっとワクワクしながら「せっかく来たんだし、何か美味しいものを食べよう」と思った。夢の中でも食欲を忘れない。そしてなぜか、わたしはその街に、人気のスイーツ行列店があることを知っていた。なんとなく、それはかき氷だったような気がするが、記憶は曖昧だ。

 しかし行ってみると、売っていたのはかき氷ではなかった。それに、すごい行列だ。何を売っているのかと見てみると、スイーツ専門店というわけではなく、軽食と甘味と両方やっている店という感じだった。

 ところがそこに並んでいるのは、見たこともない変な菓子ばかりなのだ。見た目はシンプルで、味の想像もつかない。半透明な、麺のように細長いものや、丸い餅のようなものがあるが、それが「何」なのかわからない。原材料も不明だ。名前もすべて、聞いたことのない造語のようだ。

 こんなに人が並んでいるのだからその価値はあるのだろう。せっかく来たのだし何か買っていきたい気持ちもある。だが、それが何なのか分からないまま、この行列に並ぶのも気が引ける。わたしはそんなふうに思った。

 あとから考えると、夢の中なのに妙に生々しい思考回路である。

 その夢は、どちらかというと平和で心地のよい印象の夢だった。ストレスや不安のない、落ち着いた世界だった。しかし、食べ物にはありつけないのだ。いつもこうだ。何かを食べようとすると、必ず何かの障害がある。行列であったり、売っているものの得体の知れなさであったり、目の前での売り切れであったり、道に迷ったり。選ぼうとしたものが、いきなり消えて別のものにすり替わっていたり。

 でも、夢の街は楽しげだった。

 時計塔のある瀟洒な駅。珍しいものが陳列されている博物館。見たこともない本がたくさん並んでいる本屋。お祭のように浮かれた賑やかな景色。見るものすべてが新鮮だった。

 美味しいものは食べられなかったけど、なんとなく目が覚めて寂しい気分になってしまった。